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E.T.A.ホフマン『マドモワゼル・ド・スキュデリ』

 さて、17世紀のパリ、太陽王ことルイ14世の治世のもとフランスはその力をヨーロッパに現し、ヴェルサイユ宮殿といった建築やラシーヌら古典主義の文学、バレエなどの舞台芸術などさまざまな文化をも花開かせた一方で、その都パリは毒殺魔をめぐる王室スキャンダルの舞台となるなど(澁澤龍彦も取り上げていたブランヴィリエ公爵夫人、ラ・ヴォアザン)良くも悪くも「華やか」な、昨日のエントリーでメモしたルーブル展のタイトル通り「変革」とその結果としての揺らぎ・不安の時代であった。
 その時期のパリを舞台として語られるのが、E.T.A.ホフマンの『マドモワゼル・ド・スキュデリ』(1819年、完成は前年)。先月、ふたつの訳が文庫本の形で書店に並んだ。
 ひとつは岩波文庫、2009年春のリクエスト復刊36点のひとつとして。ホフマンの研究者である吉田六郎が1956年に訳したものである(タイトルは『スキュデリー嬢』)。もうひとつは、光文社古典新訳文庫の新刊として、大島かおりの訳。『黄金の壺』、『ドン・ファン』、そして『クライスレリアーナ』からの抜粋、がともにおさめられている。

黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ (光文社古典新訳文庫)

黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ (光文社古典新訳文庫)

 その『スキュデリ』、これは面白いのだ。『黄金の壺』と『スキュデリ』のカップリング、そして大島かおり、とくれば、これはほんとにおすすめである。
 森鴎外が『玉を懐いて罪あり』という題名で翻訳(抄訳)したことでつとに有名なこの物語は、「探偵小説」あるいは「推理小説」の最初の例のひとつ、とされる。リヒャルト・アレヴィンが1974年の論文で論じたところだ。
 パリで連続する宝石強盗殺人事件、その連続の最後に殺されたのは有名な金細工師カルディヤック。弟子のオリヴィエが下手人として捕まり、その犯行は状況証拠によって動かぬように見える。しかしこの事件に巻きこまれた(実はここで巻きこまれる前から巻きこまれていた、のであるが)、当時の著名な女性詩人スキュデリは、彼が無実であるようだという自らの心の声に従って行動を起こす・・・。
 スキュデリは、厳密な意味での「探偵」の役割を演じるわけではない。しかし、「探偵小説」というジャンルが生じるさまざまな背景を担い、体現する存在である、とは言える。
 啓蒙主義的な理性、自然科学的思考、警察組織や法律といった制度面の整備などが「探偵小説」成立の一方の基盤であると同時に、(英国)ゴシック小説、恐怖小説からロマン主義という流れがそこに加わって、普通の者が見えぬものを見てしまう存在としての「探偵」が生まれるのである。そのあたり、たとえば前田彰一『欧米探偵小説のナラトロジー』(彩流社、2008年7月)に詳しい。ポーと怪奇・幻想とのつながりはもちろんのこと、コナン・ドイルがオカルト(心霊学)にハマっていたことも理由があるのだ。 
 さらに付け加えれば、犯罪者と探偵(的役割の人間)はこの物語では同じ世界に属する存在なのであり・・・ということを書いてしまうと、ネタバレになってしまうので、書かない。ただ、キーワードとして「疎外」という言葉だけ挙げておこう。社会からの疎外、そしてみずから作りだした作品からの(マルクス的な意味での)疎外。そこから生まれるフェティシズム。近代市民社会、近代資本主義社会のなかで、芸術家は幾重にも「疎外」され、苦しむことになる。
 さらに、『スキュデリ』を読んだら、エルンスト・ブロッホの「探偵小説の哲学的考察」ならびに「芸術家小説の哲学的考察」をぜひ読んでみて欲しい(『異化』におさめられている)。翻訳の文章ともども、楽しめ、深く味わうことのできる小論だから。
(2009年4月1日一部追記)