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宮川健郎『現代児童文学の語るもの』(NHKブックス、1996年9月)

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)

日本の「現代」児童文学の歴史を、いくつかのユニークな切り口でたどる。読了後、頭の中がだいぶクリアになった。そういう本は、以外と少ない。具体的に書こうという姿勢を徹底しているのがいい。以下、簡単なメモ。
「はじめに」で、巌谷小波小川未明から、大正期の「童心主義」(鈴木三重吉、『赤い鳥』誌)、プロレタリア児童文学、と、「現代児童文学」が成立する前の時代を概観する。
そして、その「現代児童文学」が成立するのが、1959年。第一章では、その源流として、早大童話会の機関誌『童苑』が取り上げられる。中心は、前川康男。「戦争、それは、戦後児童文学全体のテーマだった」(p.42)。「詩のような」ものとしての児童文学から、散文、長編へ。寺村輝夫、大石真をへて、早大童話会は1953年にマニフェスト「『少年文学』の旗の下に!」を出す。鳥越信古田足日、神宮輝夫、山中恒。すごいメンバーだ。
第二章は、『ビルマの竪琴』と『二十四の瞳』。後者には、「童謡」と「唱歌」の対立が描かれている、という指摘があり、なるほどと思う。
第三章、いよいよ児童文学の革新の時代へ。「日本の児童文学は、1950年代に、のちに私たちが「童話伝統批判」と呼ぶことになる大きな動きを経験する」(p.61)。佐藤さとるいぬいとみこの1959年の作品が取り上げられる。ここが、現代児童文学の出発点なのだ。「ケストナーは、日本の現代児童文学がめざすべき、ひとつのモデルにもなっていった」(p.66)という指摘もある。戦前は、「童話」。詩的で、象徴的。1950年代以降は、「児童文学」。散文的、小説的。「ファンタジー」という概念も、ここで導入される。
第四章は、いぬいの『木かげの家の小人たち』論。「箱船」がキー・ワード。H・P・リヒター『あのころはフリードリヒがいた』も参照される。
第五章は、1980年代に生じた児童文学の変質について。1980年は、柄谷行人とアリエスの子ども論が刊行された年。那須正幹『ぼくらは海へ』論。
そのあとは、「原風景」、「楽園」の喪失、「戦争」、「失語」といったキーワードを用いて、いくつかの作品が分析されていく。最後の第十章では、「成長物語」と「反・成長物語」という切り口で、理想主義や単線的ストーリーが失われ、ナンセンスが登場する今の児童文学の性質を語る。同時に、「児童文学」が相手とする読者が拡散している、ともいう。「一九五九年の現代児童文学を成立させた問題意識は、みな消去されてしまったように思える。状況はもう、がらんとした廃墟のようだ。一九五九年にはじまった、子どもの文学のひとつの時代が、終わろうとしているのかもしれない」(p.225)。
1980年代以降の日本の児童文学は、あまり読んでいないし、作家も名前だけ知っている、というのが多い。那須正幹が『ずっこけ』シリーズだけじゃない、ということもはじめて知った。夏休みに子どもと図書館に行ってみようか。