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ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ』(ちくま学芸文庫、2008年3月)

 本来は机に向かって、メモなど取りながら読むべき本なのに、どうしてもそのようには読めないものがたまにある。アガンベンを読むのは、これが初めて。居間のソファで、駅前の喫茶店で、いつも持ち歩いて少しずつ少しずつ、付箋を貼りながら読みすすめ、ようやく読み終わった。アガンベンはヨーロッパの表象文化を古代から中世、現代と渉猟し、かつ人文科学のあらゆる領域を横断しつつ「西洋文化における言葉とイメージ」(副題)における「意味するもの/されるもの」の絡み合いを、それはまあ強烈な博覧強記で解きほぐしていく。結果的に「移動と、しばしの滞留」のなかで読むのがいちばん読みやすかったのは、この本のそんなスタイルからだったのかもしれない。
 さて、忘れないうちに内容をメモしておこうと思いつつ、もう眠くて頭が回らない。だいたい簡単にまとめられるほど、たやすい本じゃない。でも後回しにすると書けなくなっちゃうだろうな…。とりあえず、抜き書きを。
 第一章、エロスの表象像。エロス、メランコリー、幻想、フロイト

憂鬱気質が基本的に性愛的なプロセスと関連していることが認められるならば、メランコリー症候群が当初から伝統的に幻想的な経験と結びつけられてきたとしても、驚くにはあたらないだろう。(58)

 第二章、オドラデクの世界で−商品を前にした芸術作品。フェティシズムフロイトマルクス万国博覧会、商品、ボードレール、グランヴィル、玩具。

読者の困惑や隠れた恐怖に訴えかける「無気味」な文学のジャンルが、大衆の商品として誕生したのも、またこの時代である。グランヴィルが「マリオネットのルーヴル」で先鞭をつけた、生気を与えられた肖像画というテーマは、ゴーティエによってある物語で発展させられ、その後数多くのヴァリエーションの中で模倣された。オッフェンバックが、もっとも成功を収めた歌劇のひとつの台本に『ホフマン物語』を選んだとしても、驚くにはあたらない。そこには、ホフマンの『砂男』からとられた、生きているかのような冷たい人形オランピアが登場している。(108)

 第三章、言葉と表象像−一三世紀の恋愛詩における表象像の理論。ナルキッソスピュグマリオン、視覚、鏡、「プネウマ」、精気(スピリト)、ファンタスマ、「英雄的な愛(アモル・ヘレオス)」。

中世の心理学によれば、愛とは本質的に妄想的な過程であり、人間の内奥に映しだされ描きだされ似像をめぐるたえまない激情へと、想像力と記憶を巻きこむものだと考えられるからである。こうした愛の発見こそ、中世の心理学が西洋文化に伝えたもっとも豊かな遺産のひとつなのである。(173)

 第四章、倒錯したイメージ−スフィンクスの観点から見た記号論オイディプススフィンクスアレゴリーシニフィアンシニフィエ、エンブレムやインプレーザ、フロイトソシュール、グラマトロジー

人間の世界におけるカリカチュアは、物の世界におけるエンブレムに等しい。エンブレムが、物とその固有の形とのあらゆるつながりを疑問視するように、カリカチュアは、その軽妙なる外観によって、人間の容姿をその意味から引き離すのである。(284)

かつて時代をあげて人間精神のもっとも「鋭い」(アクータ)表現を生みだしていた寓意的図像の世界が、単純に却下されてしまったというわけではない。その世界はいまや、廃品の倉庫となり、そこで無気味なものがそのおぞましい対象を採取することになるのである。この観点から見るなら、ホフマンやポオの空想的な被造物、グランヴィルやテニエルカリカチュアや命を吹きこまれたものたち、さらにはカフカの物語る糸巻きオドラデクにいたるまで、いずれも寓意的な形式の「子孫」たちである。(286)

 アガンベンは哲学者、あるいは思想家か。1942年生まれ、現在ヴェネツィア建築大学教授。この本は、30代前半のヴァールブルク研究所における研究をまとめたもの、と。ううむ。原書は1977年刊。翻訳は岡田温司、1998年にありな書房より。今回はその文庫化。
 個人的関心としては、視覚、鏡、アレゴリー、人形(似姿)、心臓、フェティシズムなど。