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青柳いづみこ『音楽と文学の対位法』(中公文庫、2010年5月)

音楽と文学の対位法 (中公文庫)

音楽と文学の対位法 (中公文庫)

4年ほど前にみすず書房から出た本が文庫になった。
演奏家で同時に文筆家、といえばこの青柳いづみこもそう。と言っても、実ははじめて読んだのだ。作曲家と文学の作家をぶつけ合わせて、そこに鳴り響く音をクールに書き取った、という感じの本。
第二章が「シューマンとホフマンの『クライスレリアーナ』」、ぼくが学生のころからずっと追いかけているE.T.A.ホフマンが取り上げられていたので買って読んでみたのだけど、第一章のモーツァルトをめぐる文章が冒頭いきなりムージルの『トンカ』の一節で始まるのが、ああ、そうくるか、と。
全体として非常に明晰、かつ深い教養をバックボーンとした理知的な文章でありながら、最終的には演奏家としての実感を信じることで、思考の自由なはばたきを確保している。そこが魅力、かな。少なくとも、文庫版解説の大仰でナルシスティックな文章とは対極にある。『ピアニストが見たピアニスト』も読んで見よう。
ホフマンについては、音楽の専門家から見たホフマンということで、すごく勉強になった。

おそらく、「お化けのホフマン」の怪奇幻想を十全に音楽言語化するためには、二十世紀を待たなければならなかったのだろう。(・・・)ラヴェル《夜のガスパール》(一九〇八)。

音の連なりがすべて不安定で協和音に帰結することのない作品、聴き手のはしごがはずされっぱなしの語法。例えば(・・・)シェーンベルク月に憑かれたピエロ》(一九二二)の無調主義、あるいは、ほかならぬホフマンの『スキュデリー嬢』にもとづくヒンデミットのオペラ《カルディヤック》(一九二六)の表現主義に至って、はじめて可能だったのかもしれない。

ホフマンの作曲した音楽のCDを何枚か持っているんだけど、キレイで耳にやさしい感じなのだ。芸術っていうのはふしぎなもの。