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金森修『ゴーレムの生命論』(平凡社新書、2010年10月)

ゴーレムの生命論 (平凡社新書)

ゴーレムの生命論 (平凡社新書)

日々のあれこれに追われ、やらねばならない仕事がなかなか進まず、大事なつながりを維持するエネルギーが切れかかってあらゆる世界から忘れ去られようとしている。ような気がして沈み込む。
とりあえず読んだ本を忘れないうちにメモしておこう。
ゴーレムは気にかかるのだ。しかしユダヤ的出自と神話性が安易な接近を許さない。ショーレムはゴーレムと名前が似ていてなんか怖いし。本書の第一部はそんなゴーレム伝説について歴史的な全体像をおおまかに示してくれていて、勉強になった。プラハのマハラルは16世紀に生きたラビ、イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル師であり、「マハラル」は「我らの師ラビ・レーヴ Moreinu ha-Rav loew」の単語の頭んとこをつなげた言葉だったのか。こういう言葉の感覚も神秘的と言えば神秘的である。
読みたかったのは第二部、「〈怪物〉と児童人形」。「機械仕掛けの恋人」という章タイトルで、E.T.A.ホフマンの『砂男』が取り上げられていたからだ。

グリムの紹介以降、ゴーレムはロマン派の作家たちの創造力を刺激したが、その際、場合によっては、ゴーレム像が生物学的想像圏ではなく、工学的想像圏と接近し、融合したような事例を生むこともあったのである。その代表的な事例として、私はE.T.A.ホフマン(一七七六−一八二二)に言及したい。(137ページ)

オリンピアは一種の〈女ゴーレム〉であり、機械仕掛けのゴーレムだ、と。なるほど。このあたりはおもしろいのであって、たとえば竹下節子は『からくり人形の夢 人間・機械・近代ヨーロッパ』(岩波書店、2001年)のなかで、「自己発見、自己実現」的ドッペルゲンガー・タイプの「オートマタ」にはアダム型とゴーレム型があるとする一方で、「理想の他者」を積極的に造形するイヴ型、ピグマリオン型として「ホフマンの人形たち」を挙げている。『ゴーレムの生命論』でホフマンと並んで言及されているチャペック『R.U.R』、ホフマン、そしてリラダン未来のイヴ』。ゲイビー・ウッド『生きている人形』(青土社、2004年)もそのあたりを詳しくたどっている本で、精神史的に大きな広がりを持つテーマ、ゴーレム、オートマタ、アンドロイド・・・。じっくり調べ考えたいところ。
もちろんミシェル・カルージュ『独身者の機械』(ありな書房、1991年)があり、また新戸雅章『逆立ちしたフランケンシュタイン 科学仕掛けの神秘主義』(筑摩書房、2000年)、巽孝之荻野アンナ編『人造美女は可能か?』(慶應義塾大学出版会、2006年)などなど、このテーマに関する本はけっこう読んだ。科学・機械とゴシック。ドイツ語文献もたくさんありそう、探してみよう。
『ゴーレムの生命論』は、最後に「土に戻ること」、生命倫理の話へと展開する。このあたりが著者の問題意識なのだろう。
しかし、自動人形やピグマリオン系の話はけっこう「破滅」系なのが、ちょっとつらいのだが。