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岡田温司『キリストの身体』(中公新書、2009年5月)

 フランクフルトに留学中、近所にあったのでよく行っていたシュテーデル美術館に、ファン・エイクの「ルッカの聖母」があった。きらびやかな玉座に座り、はだかの幼子キリストに授乳するマリア。聖母の身にまとう深紅のガウンが強い印象を残す絵である。たしか他にも授乳するマリアの絵があったように記憶しているのだが、それらを今でも覚えているのは、キリスト教という「宗教」と、胸をあらわにしての「授乳」というある意味生々しい図像とのつながりに、不思議さを感じたからだった。そこに抽象化はなく、とても「肉肉しい」。いやそもそも、描かれ彫られた受難のキリストの肉体性には、やっぱり驚いてしまう。
 一方で、教会のたたずまいの荘厳さ、ステンドグラスの光やオルガンの音色から感じられる神聖さは、肉体から離れた精神性そのものを体現しているように見える。この間翻訳した本には、白血病で入院していた著者が姉の初聖体拝領の式に出られず悔しい思いをする、という場面が出てくるが、初聖体拝領といえばピカソ14歳の時の作「初聖体拝領」の、純白のベールをまとった少女の姿の清らかさを思い出す。
 キリストの「血」と「肉」を口にする聖体拝領の儀式こそ、そのような「肉体」と「神聖さ」の両極を象徴するもののように思える。
 岡田温司『キリストの身体』は、「(キリストの)身体をめぐるイメージこそが、この宗教 −とりわけカトリック− の根幹にあるということ」を示そうとした本である。受難、磔刑、復活。「パンとワイン」=「キリストの血と肉」。イコン。キリストが自らの顔にハンカチを当てると、その顔がハンカチに「刻印」されたという「マンディリオン」、あるいはヴェロニカの聖顔布。
 特に興味を引かれたのは、第5章「愛の傷」だ。ロンギヌスの槍によって開けられたキリストの右胸の傷をめぐって、そこにキューピッドの矢が重ね合わされることによって「愛」のテーマが浮かび上がる。赤くぱっくりと開いた裂け目と、そこに突き刺さる槍/矢。これはどうしたって「あれ」である。肉体的一体化と精神的一体化が、キリストの身体の上で、このような形で同時に表象されることこそ、キリスト教やそれを土台とする西洋文化のありかたを示しているのだろう。たとえば西洋の演劇なり舞踊なりが強度の精神性と同時に強烈な身体性を誇示することが多いのも、このあたりに鍵がありそうな気がする。
 幼子キリストに授乳するマリアの図像は、キリストがその乳首のすぐ下の傷から血を絞り出して信者に与える姿へと、平行移動する。キリスト教に帰依するということは、キリストの胸の傷からその心臓へと入り込み、かつそこから出る血を自らの体内に摂取することによって、「ひとつの身体」を皆と共有する体験をベースとしているようなのだ。