ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

はてなダイアリーから移行。元は読書メモ、今はツイッターのログ置き場。

飯田道子『ナチスと映画 ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか』(中公新書、2008年11月)

「新書」の持つ役割は最近だいぶ拡散してきているけれど、ある分野なり項目なりについてクリアな見取り図とそこからどう調べて行けばよいかの道しるべを示してくれるもの、というのがまずは基本にあるんじゃないか。
それを読めば、まずわかりやすい地図が頭の中にできるもの。加えて、その地図の背後に著者独自の視点が明確に見えてくれば、なおよい。
その意味で、この本はまさに「新書」っぽい新書だ。
ナチスと映画との関わりを、ナチ時代から現代まで、「描かれた」ヒトラー、「描かれた」ナチスという観点から手際よく、しかし内容豊富に、まとめている。
ナチスが映画を「宣伝」にたくみに「利用した」と言われる。しかし、レニ・リーフェンシュタールも含めて、そこで用いられた手法は、すべてそれ以前の映画が開発してきたものなのだ、と。
第二部、第二次大戦後にヒトラーナチスの映画における描かれ方の変遷をたどった部分が、とくにおもしろかった。
まだナチスの行いの全貌が明らかになっていない時期の、チャップリンとルビッチュ(ルビッチ)。ヴィスコンティの、「倒錯の美」としてのナチス。あるいはカヴァーニの『愛の嵐』。
1970年代に入ると、過去の克服が問題となり、ファスビンダージーバーベルク、そしてシュレンドルフ『ブリキの太鼓』。批判され、否定されるナチス
1980年代、ホロコーストを描く。ランズマン『ショアー』、エンタテインメントとしての『シンドラーのリスト』。あるいは、『ライフ・イズ・ビューティフル』。
20世紀末になると、シュレンドルフが『魔王』でナチスの「魅惑」を提示する。
そして21世紀、シュリンゲンズィーフがヒトラーをグロテスクに笑いものにする一方で、ソクーロフの『モレク神』やヒルシュピーゲルの『ヒトラー〜最後の12日間』が、「人間的」なヒトラーを描いて広く議論を呼ぶ。
ドイツは大きな「傷」として第三帝国の時代をかかえつつ、ナチスヒトラーの「表象」なり「イメージ」は多様に拡散しつつある。
そこにあるのは、常に実体を欠いた、われわれの記憶・われわれの影なのだ。