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内田樹『女は何を欲望するか?』(角川oneテーマ21、2008年3月)

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)

 このあいだ、車の中でAMラジオを聞いていたら、武田鉄矢内田樹の本をだしにしてなにやらしゃべっていて、とても驚いた。それがまたでたらめで、再び驚いた。
 かように広範な読者を獲得しているところの内田樹(うちだ・たつる)の、2002年に出た本の新書化されたものが、本書である。大幅改稿、とある。フェミニズムという理論的枠組みが歴史的な役割を終えつつある、という現状認識のもとに、その理由を、理論自体に内包された構造的「瑕疵」と、理論を担うフェミニストたちの構えのなかに見いだしていこうというもの。
 この本の内容の当否を論じられるほど、ぼくはフェミニズムに詳しくない。内田の言う状況が、日本だけでなくアメリカやヨーロッパでもそうなのか、も、よくわからない。ジュディス・バトラーやショシャナ・フェルマン、あるいはスピヴァックを読んだときに感じた知的興奮と、いくつか読んだ日本人研究者によるフェミニズム解説書や理論を援用した「分析」に覚えた幻滅感とを思い返しつつ(たぶん、解説書っていうのがいけなかったんだろうけど)、内田の議論を追っていくのがやっとである。しかし、その理路は明快で、よくわかる。
 ただ、たとえば文学なり映画なり(この本でも、エイリアン・シリーズをフェミニズムを持ち出して論じている)を分析する手段としての、あるいは「現代思想」としてのフェミニズムというものと、現在の日本という場で生活する者として感じる、社会の中での性役割の現状というものとの、なんと言えばいいか、水位の差のようなものはどのように埋められるのか、「歴史的役割を終えた」として、後者に関してわれわれはこれからどのように対していけばいいのか、ぼくなどはそこを考えたいのだが。
 後半の『エイリアン』論、とてもおもしろい。その前置き部分にある『ホーム・アローン』分析も、なるほど、と思う。ダーントンやバダンテールをひきながら、19世紀までは親による「子殺し」が「良心の咎めなしに行われていた」とし、しかしグリム兄弟の時代、19世紀初め頃から、近代的「家族」概念=「愛し合う家族」が定着し始め、「子捨て」話型への心理的禁忌が「実母」から「継母」への書き換えを促すようになる。そのような意味において、『ホーム・アローン』は『ヘンゼルとグレーテル』の「現代バージョン」として解釈できる、と。
 内田樹の本はどれも、「なぜ?」を喚起する。「先生」の見本のような人だ。