ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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この世界のしくみを

少しでも知りたいのだ。
 それには、まずは歴史を。文学なら、文学史を。いまやっているドイツの子どもの本の講義も、テーマ別じゃなくて、まずは「児童文学史」なのだ。初回に現在の状況をざっと見渡しておいて、そこに流れ込む歴史をたどる作業を地道に行う。
 連休はひたすら部屋にこもって論文を書くための勉強に励む。ゲーテやシラー、ロマン派の時代、ドイツ語圏の「演劇」に、「ドイツ」というまとまりを希求する動きが反映していないだろうか。レッシングは、シラーは、ティークはそこにどう関わったか。ハンブルクでの「国民劇場 Nationaltheater」、ウィーンではヨーゼフ二世がブルク劇場を「国民劇場」にする。今に続く、ドイツ特有の公立劇場システム、レパートリー・システムのはじまり、の時代。
 「ドイツ・オペラ」「ドイツ演劇」の誕生。俳優の時代から演出家の時代へ。「宮廷」の限られた人間のみが楽しむ舞台から、複数の社会層の人々が「観客」となる劇場へ。「消費者」が生まれ、そこに供給が生じる。システムが動き出す。その背後には、メディアの発達、学校を中心とした教育システムの整備、産業革命フランス革命を経て生まれつつある近代的市民層、などなど。
 シェイクスピア。ゴシック・リバイバル。シラーと「市民劇」。ティークやホフマンの演劇との関わり。ロマン派の「運命劇」。
 プロセニアム・アーチは17世紀からイタリアで登場するが、遠近法、「絵」と「額縁」というしくみ、は観客の視線に枠をはめ、視点を固定する。これはおそらく「啓蒙」と関わってくるのではないか。平土間席を桟敷席がぐるりと取り囲み、劇場内は上演中も暗くしない、結果として観客は舞台だけでなくお互い同士を「見物」する、という形から、観客全員が舞台に正対し、つまりは視線が一方向に向き、しかもプロセニアム・アーチで枠づけられる劇場へ。舞台上と観客席との完全分離により、「観客」が創り出される。
 「視覚」の娯楽の時代がもうすぐやってくる。カメラ・オブスキュラからパノラマ、ジオラマ。写真の誕生ももうすぐ。カレイドスコープ、ファンタスマゴリア、それからソーマトロープとフェナキスティスコープは1820年代に登場。「産業博覧会・万国博覧会」もその流れの中にあるだろうか。視覚的驚異は「ヴンダーカンマー」的閉鎖性から解放され、カメラ・オブスキュラ的固定性からも解放され、「個人」としての主体の複数性に溶かし込まれていく。
 啓蒙思想を背景として、「国民」を「教育」し、市民的倫理・道徳の涵養を促す、という考え方。哲学・人間学と教育学はたとえばヘルバルトで結びつく。コメニウスをその源泉とするであろう「視覚」と「言葉」との結びつきで「世界」を把握しようとする、させる欲求は、「国民」意識を高めようとする動きのなかで、「演劇」をクローズアップさせるのではないか。そういえば、「国語」としてのドイツ語の「標準発音」は舞台をその母体とするのではなかったか。
 庶民的娯楽の「文学」化。民謡や昔話が蒐集されて文学的ストックとなり、近代市民的「家庭」へと入り込む。演劇においても、「文学化」によって国民的「芸術」への道(公的支援をその支えとする)をたどりはじめる。

読んだもの。
ミヒャエル/ダイバー『ドイツ演劇史』(白水社
ハートノル『演劇の歴史』(朝日出版社
永野藤夫『啓蒙時代のドイツ演劇』(東洋出版)
ディドワース『劇場』(早稲田大学出版部)
brauneck:Die Welt als Bühne, zweiter Band. J.B.Metzler.
中央大学人文科学研究所編『近代ヨーロッパ芸術思潮』
青木敦子『シラーの「非」劇』(哲学書房)
などなど。