ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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メアリー・ノートンとジェイムス・クリュス

 『床下の小人たち』の続き。
 メアリー・ノートンと同時代のドイツの児童文学作家にジェイムス・クリュスがいる。『床下の小人たち』が書かれた1952年にデビュー、4年後の1956年、『ロブスター岩礁灯台』Der Leuchtturm auf den Hummerklippenを発表。プロイスラーと並んで、戦後のファンタジー児童文学の開拓者だ。
 どうしてノートンとクリュスを並べたかというと、『床下の小人たち』も『ロブスター岩礁灯台』も、作品の語りが多層構造になっているのである。
 『床下の・・・』は、まず序文のようなものがある。

この話を、はじめて、わたしにしてくださったのは、メイおばさんでした。いえ、わたしにではないのです。(・・・)ケイト、たしか、そんな名まえの人でした。ええ、たしかにそうです − ケイトです。といって、その名まえに、なにか重要な意味があるというわけでもないので、ただ、その子が、この話に顔を出すというだけなのです。

さて、これはどういう意味なのだろう。これは作者が語っているのだろうか。「わたしに」と言っておきながら、「わたしにではない、ケイトにだ」と言う。英語の原文に当たっていないので確かなことは言えないのだけれど、これを読んだ読者は、メイおばさんと語り手とケイトという三人の間で、宙ぶらりんにされたまま、本編を読み始めることになる。もちろん、スレた大人には、その上位の審級には「作者」がいるのがわかっているから、作者のたくらみは何だろう、と考えることになる。
 メイおばさんが語る「借り暮らしの小人たち」の話も、どうやらおばさん自身の体験ではないことがわかってくる。戦死した弟がおばさんに話してくれたものらしいのだ。物語の「起源」は、こうしてどんどんと読者から遠ざかっていく。
 結末の部分で、メイおばさんもこの話の世界に実際に関わったらしいことが示され・・・そして、最後の一行で、おいおい、それはちょっと・・・というような事実がおばさんの口から発せられるのである。
 この一行が、物語自体を決定的に壊すというようなことはない。アリスの「夢落ち」と同じで、この話を楽しむのにはあまり関係がない。人物描写や終末論的なストーリーも含めて、ノートンという作家は、あまり人間や我々の生きる世界を信じてはいないのだな、ということの「しるし」のようなものだと思う。


 一方のクリュスの『ロブスター岩礁の・・・』の語りの多重性も、なかなかなのだ。
 作者を思わせる、「わたし」という作家が登場する。伝説の「風のうしろの幸せの島」というのを調べているのだという。「わたし」は、ハウケ・ジーヴァース親方と出会い、その話を聞く。その話の中に、灯台守のヨハン、カモメのアレクサンドラ、ユーリエおばさん、ポルターガイスト、水の精マルクス・マレといった面々が登場する。
 クリュスの作品の特徴は、「枠物語」だ。この作品の中にも、3つの語りのレベルがある。ひとつは我々のいる現実の世界(A)。親方と「わたし」のいる世界である。そして、親方が語る話の世界(B)。そこにはヨハンやアレクサンドラたちがいる。そして、その彼らが語る、さまざまな物語の世界(C)。読み進むにつれて、なんというか、「別世界度」と言えばいいのか、がどんどんと増していくのである。
 そしてさらに、その(A)と(C)は、どうやらつながっているようなのだ。これがこの作品のおもしろいところである。

 
 どちらの作品も、「こちらの世界」と「あちらの世界」、というような単純な二分法ではできていない。現実とは多面的なものであり、現実の背後には謎があり、今の現実のよって立つ基盤はけして確固たるものではない。ほんとうはうそになり、うそはほんとうになる。現実を支える「構造」は常に変化している。しかし、語られる言葉が瞬間瞬間に持つ意味は、読者にとって「ほんとう」なのでもある。ファンタジーという形式の特質は、そういうところにあるのではないかしら。