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本田和子『それでも子どもは減っていく』(ちくま新書、2009年11月)

 「児童学」という分野の第一人者、本田和子の新しく出た新書を読む。

それでも子どもは減っていく (ちくま新書)

それでも子どもは減っていく (ちくま新書)

 「少子化」が叫ばれているけれど、それは日本という国の「国力」の低下、そして高齢化社会においてそれを経済的に支える労働人口の減少、というように、もっぱら「経済」の観点から語られているし、政府の「対策」のスタンスもなべてその点から出発しているように見える。
 そんな現状に、「子ども」を対象に研究してきた著者は異を唱える。そもそも、明治の昔から、生まれる子供の数の制限というのは女性たちがずっと勝ち取ろうとしてきたものに他ならないのだ、と。「少なく産みよく育てる」ことが選択できる今の状況は、女性にとって「望ましい状態」なのだ。ゆえに、少子化の流れは、もはやとどめることはできない。
 だからこそ、子どもを「未来の納税者」としてばかり語るのではなく、今、現に生きて存在している「子ども」にこそ目を向けなければならない、と著者はいう。社会の中で「子ども」が生きていることの意味はなんなのだろう? 
 子どもは、変化する存在である。固定化し、安定をのぞむ大人に対して、生成変化する子どもたちは、社会の中での「対抗原理」だ。著者のかつての本のタイトルを借りれば、「異文化としての子ども」。社会にダイナミズムを生み出し、そして変わりゆく未来を先取りする存在なのである。
 しかし、経済的観点からのみ子どもが語られるとき、かつ、子どもの数が減って社会の中で存在感を失いつつあるとき、社会全体が「子ども嫌い」、といって表現がきつければ、今言ったような「子ども的なもの」が認められにくい状況になってしまう危険があるし、その芽は実際に子育てをしている人間には実感として感じられるのではないか。
 だから、今「少子化対策」として取られているさまざなな政策、保育所や育児休暇、「子ども手当」などは、働く母親の支援ということに重点が置かれているけれど、自分たちの同世代が少なく、しかも社会全体が子どもへのまなざしを欠きつつあるという状況に置かれている今の子どもたちへの、それは支援となってもいるのだ、と著者は指摘する。きょうだいが少ない、近所に子どもが少ない、としたら、たとえば保育園や学童保育がそれを補う。この点は、両親共働きで一人っ子であるうちの子どもで、日々実感しているところなのだ。今行っている民間の学童保育の場が、うちの子どもにとってどれだけ大切な居場所になっているか。
 でもなあ、状況はなかなか厳しい。子どもに関して語られるのは「お金」のことと教育の(数字で示すことのできる)「成果」ばかりだ。ちょっと前にテレビで、高校の集会で生徒が校長に「ぼくらのニーズに学校はどう応えるんですか?」と言っている場面を見て、えらく驚いた。大学でも、学生の望むものをいかに提供するか、将来のたとえば資格取得などにいかに役に立つか、ばかりが重視される。今はどこでもアンケートを学生にとるのだけれど、「この授業はあなたの目的にとって役に立ちましたか?」という項目が必ずある。
 だけど、「ニーズ」とか「役に立つ」とかって、結局は今の時点での価値観から測られるものだし、最終的には「お金」の問題だろう。授業料に見合うリターン、っていうことだから。それは「大人」の、現状安定と持続を望む価値観に、子どもを取り込んでいるということだ。学校や大学は、「未来」や「未知」への扉で(も)あって欲しいのに。これがおれのわたしの「ニーズ」だ、なんて今の時点で子どもたちが思っていることがらのなかになんて、未知の新たな可能性の芽はないんじゃないの?
 ちょっと前には女性は子どもを産む機械だといった大臣がいたし、障害児にまつわる話の中で「腐った枝は刈り込まないといけない」などと言った市長もいるし、大阪の国際児童文学館をつぶして、かつ学力テストの結果のみを大声で吠える知事もいるし、人を人として見ることのできない為政者や、効率・有用性・成果至上主義はますます表にあらわれはじめている。
 などと、いろいろと考えながら読んだ。本田和子の本は、あらためて系統立てて読んでみようと思う。