ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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男と女とチョートク

 母親がおばたちと話をしているのを横で聞いていて、子ども心にいつも不思議に思っていたことがあったのだ。
 ある話題で話をしていて、だれかがしゃべっている途中で、聞いているほうがその話題と全く関係ないことをふっと言って(たとえば「あら、これおいしい」とか)、でもそれをだれも気にする様子なく、問題なく話は進んでいく。時には話題が切り替わっちゃうこともある。
 うちの人たちってへんなの、と思っていたのだが、結婚したら妻がまったく同じことをするのだった。
 斎藤環『関係する女 所有する男』(講談社現代新書、2009年9月)では、女性は「関係原理」で行動し、男性は「所有原理」で行動するということが、精神分析ジェンダー論をバックボーンとして論じられていた。男性的な言語の機能は「情報の伝達」であるのに対して、女性では「情緒の伝達」に重きが置かれる。抽象性と完結性、「普遍」が重要な男性に対し、身体性と関係性、「現在」が女性では大切。なるほど。

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

 考えてみれば、ぼくの欲望は目の前のモノというよりそれを語る「言語」によって起動する、ことが多いのだ。たとえばカメラひとつ買うにしても、店に行って良さそうなのをポンと買う、ということができない。買う前にまずそのモノについてさまざまな人が語る言葉や、由来や歴史の説明などを読むことで楽しみ、同時に「欲しい!」という気持ちがむくむくと生まれてくる。そして買った後でも、それを語ることばを探し求めて雑誌など買い込んでしまう。
 目の前にある「これ」だけじゃなくて、それがまとう言語的「価値」までひっくるめて「所有」することが快感なのである。
 たぶん女性はそうじゃないんだ。会話のありかた、関係の持ち方も含めて、いろいろと反省することあり。話しかけられて、「そんなの見りゃわかるじゃない」といらいらして言うと、「話がしたかったんだもん」と。そんなすれ違い頻発。理解し合うのは難しい。
 そういえば、カメラを買ったら、その製品をダシにして田中長徳が一冊の本を書いた。
田中長徳 PENの本 (インプレスムック DCM MOOK)

田中長徳 PENの本 (インプレスムック DCM MOOK)

 チョートクの「言葉」は、ぼくにとって欲望起動力が強いのである。カメラで写真を撮るのも楽しいけれど、チョートクの語りを味わうのもまた楽しい。田中長徳もまた、視覚と言葉の人間なのだ。
 そのチョートクの名前を、妻はぼくよりずっと前に知っていた、のには驚いた。田中長徳は若き写真家としてウィーンで暮らしていた時代がある。今はプラハにアトリエを持ち、へたすれば毎月のように東京とプラハを行き来している。ウィーン、ブダペストプラハ好きの妻は、学生のころにチョートクの写真集を愛読していたのだった。
 今、妻の本棚から『ウィーン古都物語』(グラフィック社、1988年)を借りてきた。ただのきれいな観光物件写真集ではない。いやもちろんきれいな写真満載なのだが、同時に街角人間ウォッチングあり、「路上観察学」あり。
 文章がたくさん。チョートク節はこのころから炸裂している。「世紀末を歩く」という章の見出し横には、「オットー・ワグナーのヴィラ1を見に行った。・・・裏口に回って呼び鈴を鳴らすとあのエルンスト・フックス氏本人が出てきたのでびっくりしてしまった。」と書いてある。でも本文にはフックスのことなんてぜんぜん出てこないのだ。衒学的だが、憎めない。人柄だろうか。