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「近代演劇」と「歌舞伎」のあいだ

 神山彰『近代演劇の来歴−歌舞伎の「一身二生」』(森話社、2006年3月)と『近代演劇の水脈−歌舞伎と新劇の間』(2009年5月、森話社)、読了。

近代演劇の水脈―歌舞伎と新劇の間

近代演劇の水脈―歌舞伎と新劇の間

 今ある形での「歌舞伎」が、「伝統」として形成されていく過程を、「近代演劇」との絡み合いを通して論じていく本。
 明治時代、「演劇」とはイコール「歌舞伎」のことだったのだ。たとえば「新派」や「新劇」と「歌舞伎」を二項対立的に語る、のが一般的かつおおざっぱな日本の近現代演劇史、というイメージがあるが、両者の間には当然ながら、一筋縄ではいかない錯綜した関係がある。
 「観客」あるいは受容の問題(「大衆」)、舞台装置や照明といったテクノロジーや劇場建築、「視覚」、演技における表現の形式、都市のありかた、それから新国劇や宝塚など、さまざまな補助線を用いて歌舞伎の変遷を明治・大正・昭和と辿っていく。それぞれ400ページになろうとする大部の本だが、ぐいぐいと読まされた。
 九代目団十郎、黙阿弥、活歴、散切物、「演劇改良運動」から「日本演芸協会」へ、島村抱月、二代目市川左団次、「リアリズム」と「写実」とスペンサーと「言文一致」。著者が特に強調するのは、その当時に生きていた人びとの実感を考察の基盤とすべきだということ。養われ、失われる「記憶」を史実に基づいて再構成すること。
 その中で、たとえば小山内薫の「理念」がいかに当時の本当の「西洋」の実情とかけ離れたものだったのか、その様相が浮き上がってくる。「通史」からこぼれ落ちるものを丹念にすくい上げることで、転換期としての明治・大正時代においてわれわれが得たもの、失ったものがわかってくる仕掛けだ。
 「写実」と「見世物」は、現実の舞台の上では、あるいは観客の立場からは、けして相反するものではない。また、「天保老人」と逍遙・鴎外、そして小山内・土方、それぞれの世代の違いは、断続と連続を同時に抱えながら、「近代演劇」と「古典」であり「保存すべき」ものとしての歌舞伎を生み出していく。
 現代の「通史」における評価と、俳優たちや舞台の具体的な記憶を語った人たちの評価とは、時に大きく食い違う。その不思議さにこだわって書かれた本書は、いわば「謎解き本」として楽しめる。単純な二項対立で思考するかわりに「時代に通底する欲求」をベースに考えていこう、そこにこそ多義的でときに曖昧な、だからこそ面白い「演劇」の姿があらわれるのだ、と。
 やはり明治20年代と、日清戦争あたりがターニング・ポイントなのかな。初めて知る知識ばかりでうまくまとめられないので、とりあえず思いつくままにメモ。