「比較文学」ということは
日本人が異国の文学を研究するということにこの国の社会は今やほとんど意味を与えない、という状況であることは明らかだろうし、それを生業としている者たちは「なくってもなくってもいいもの」(by志ん生)に携わりつつお給金をいただいているということを意識しながら個々に自らの仕事の意味を見いだしていかねばならない。
日本人が異国の文学を研究するということはつまり、すべからく「比較文学」たるべきではないか。そのことの難しさ、必要な力量の途方もなさを思いつつも、それは基本においておきたい。
さてなにをごちゃごちゃ言っているかというと、沓掛良彦先生(直接習ったので敬称をつけます)の『和泉式部幻想』を読んだのだ。岩波書店より、2009年1月刊。
- 作者: 沓掛良彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/01/21
- メディア: 単行本
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時に高度に抽象的な思惟の強靱さ、知性に支えられた自己省察と内省の深さ、詩的想像力の豊かさ、そしてことばの美しさ、そのいずれをとっても、和泉式部という女流歌人が、古今の女流詩人の中で最高の位置を占める一人であることを疑わせるものはない。(12ページ)
ということばに真の説得力があるのは、専門が「西洋古典文学・古典文献学」であるからしてギリシャ語、ラテン語は言うにおよばず、ロシア語、フランス語、イタリア語、中国語などなどの文学作品を原語で読みこなしながら、古今東西の詩人たちの作品を渉猟し味わってこられた沓掛先生が語るからこそだ。
サッフォー、フランス16世紀のルイーズ・ラベ、晩唐の詩人魚玄機、イタリアのガスパラ・スタンパといった詩人たちの名前とともに和泉式部の歌が語られるとき、ある国のある時代に生きた女性の「生」と「ことば」の持つ特殊性と普遍性がふたつながらに浮かび上がる。
「比較」の醍醐味を堪能。「本書は気ままな古典エッセイである」という、そのことばの背後にある著者の経験と自負に思いをはせる。