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ミカエル・ウスティノフ『翻訳 −その歴史・理論・展望』(白水社[文庫クセジュ930]、2008年11月)

原書は2003年刊。
「翻訳論」と呼ばれる分野に関するハンドブックである。
目次を挙げる。
  第一章 言語の多様性、翻訳の普遍性
  第二章 翻訳の歴史
  第三章 翻訳の理論
  第四章 翻訳の作用
  第五章 翻訳と通訳
  第六章 翻訳の記号
訳者の言うとおり、もとがフランスの著作なので具体例も文献もフランス語関係が多く、多少読みにくい。
翻訳論に関して、日本語で書かれた概説書があるといいんだけど。
「翻訳」に関しては、おそらく大きく分けて、翻訳がなされる際の深層的なメカニズムの問題(起点言語から目標言語に至るプロセス)、個々の言語の特性に応じた技術的問題、そして思想史的な問題、があるだろう。
この本では、それらがバランス良く解説されていて、全体像をまず把握するには良い参考書だと思う。
一点だけ、興味を引かれたところを言うと、
中世では逐語訳が至上命題だった(聖書の翻訳)が、ルネサンスに至って「美的見地を翻訳の最重要課題に位置づけ」る(43ページ)。
そして18世紀、ロマン派の時代になって、ふたたび「逐語訳」が支持されるようになる。
ゲーテは翻訳を三つに分類する。

第一の翻訳は、作品を原作の言語どおりに移し変えることに徹する。これはルターが聖書翻訳で行なった作業である。第二の翻訳は、作品が受容側の文化の言語で直接書かれたかのように見せるものであり、典型はフランス風の優雅な翻訳である。結果、翻訳は原作に取ってかわる。ドイツでは、ヴィーラントが最たる例である。第三の翻訳は、これら二つを統合したものである。翻訳はもはや原作の「代わり」ではなく、翻訳側の言語のただなかに固有の位置を占め、原作をある言語から別の言語へと移し変える。そのとき、二つの言語のあいだには、交差が生じる。

(50ページ)
ゲーテは第三の翻訳の形を「もっとも高次なもの」としたのである。
なるほど。
それでちょっと思いつきなんだけど、グリムが昔話を「書き換え」た、ということに関して、「翻訳」にまつわるこのような歴史的な流れが影響していなかっただろうか。
この場合、同じ言語内での「翻訳」ということになる。
アルニムとの論争、ちゃんと読んでいないけれど、どうだろう。
原典に忠実でなければいかん、という立場と、「核」を押さえていれば、あとは目標言語にとって「自然」な語り方に直すべき、という立場と。
フランスの、ペローなどは庶民の語りを貴族・市民階級的、文学的な語りへと「優雅な翻訳」をした、ということになるか。
ロマン派の時代は、人間の世界を「認識」するメカニズムについて、さまざまな探究が行われた時代である。
思想・哲学的にはカントだろうし、生理学的にも、たとえば視覚のメカニズムが研究された。
人間は、「現実世界」を直接認識することはができない。視覚で言えば、眼球から脳へ、そして脳のなかでなんらかのプロセスがあって、「像」が生じる。
つまり、「原」なるものを、われわれにとって認識可能なものに移して、はじめてわれわれはある事象を認知するわけだ。
翻訳も、「原(作)」を、自分が読み取ることのできる言語に移す作業だ。
ゲーテの翻訳論は、彼の光学論(色彩論)、あるいは植物学(「メタモルフォーゼ」「原植物」「形態学」)と、密接に関連しているのだろうか。「原」なるものが展開し、個々の表現形態をとる、そのプロセスの探究として。

***

まだ買っていないが、今月は白水社から
『思想としての翻訳 ゲーテからベンヤミンブロッホまで』
(三ッ木道夫編訳)
が出ている。手に入れよう。
また、松籟社から
『翻訳行為と異文化間コミュニケーション─機能主義的翻訳理論の諸相─』
(藤濤文子著)
という本が出ていて、これもずっと気になっていたが、まだ買っていない。ドイツ語が中心に扱われているようだ。第三章は「翻訳の多様性の検証:固有名詞の翻訳方法について─グリム童話他の事例から─」、と。

さて、ポプラ社のポプラ文庫から今月、翻訳家である鴻巣友季子の『翻訳のココロ』も出ていた。翻訳家の、翻訳にまつわるエッセイ集だ。信頼の置ける翻訳家のひとりであり、文章もうまい。
翻訳とはそもそもどのような営みなのか、ということへの考察から、実際に翻訳家は翻訳中にどんな作業をしているのか、まで、おもしろく書かれている。

『カラキョー』なども含めて、かように「(文学作品)翻訳」が取りざたされる一方で、1898年創刊の『英語青年』が休刊、とのニュースが。ウェブマガジン化、ということだが、それじゃあ先はないだろう。英文科の先もないのか。いわんや独文科など、風前の灯火だ。