ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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一日、家にいて

 今日は大学の授業が休み。一日を家の中で過ごす。
 居間で音楽を聴きながら本を読む。サム・ムーアのアルバムをかける。スティーブ・ウィンウッドとのデュエット、"Ain't no love"(これが好き)の次に、"None of us are free"が続く。こちらはスティングとのデュエット。だれかが鎖につながれているなら、そこではだれもが自由を奪われているのだ、とスティングが叫ぶ。間違ってると声を上げねば、それが正義とあいつらは言いつのる、と。となりの国で起きていることを考えれば、これは単なるナイーブなお題目ではない。そこにある現実。横に立って冷めた目で眺めれば、少数者への圧政(「鎖」)を批判する声に反発し、世界各地で聖火を歓声で囲み、国内では外資系のスーパーを怒声で囲む人々のまわりにも、鎖が見える、見えてしまう。
 しかしもちろん、それは「ここ」のことでもある。弱みを見せたものに襲いかかる社会的攻撃、道を踏み外したものに向けられる徹底的な敵意。鎖のたてるじゃらじゃらという音が、そのまま自分にも迫ってくるかもしれぬ、そんな可能性を想像する力の欠如が、そこかしこから顔を出す。なんて偉そうに書いたけれど、まずあるのは、あそこに立っているのはぼくであってもおかしくない、という、ひ弱な人間の恐怖感だ。
 木更津市で、「後期高齢者」あての通知書の宛先欄が黒枠だったと、問題になっているらしい。これは想像力の欠如というよりも、フロイト言うところの「錯誤行為」というやつだろう。「後期高齢者」という言葉もそうだが、こういうのは批判してやめさせるのではなく、こんなことしてるよ、と皆で確認しつつ、そのままやらせておくのがいいと思う。そして常に、役人というのが自分たちをどう見ているのか、しっかり意識しつづけるのが良い。
 さて、読んでいるのはジェイン・オースティン『エマ』(工藤政司訳、岩波文庫、作者表記は「ジェーン」)。1816年のこの作品をなんで読んでいるかというと、もちろん森薫『エマ』の完結編(第10巻)を読んだからだ。タイトルつながり、で。あとはイギリスつながりと、「ガヴァネス」つながり、か。だが、共通点はそれ以外にもある。両作者とも、主人公の、若くかつ容姿と能力に恵まれた、階級社会の中で生きる女性に対して、愛情を持って「意地悪」している、というところ。意地悪のしかたはちょっと違うけれど、冷めた目で主人公を突き放しつつ読者を自然と彼女(たち)によりそわせてはらはらさせる、その呼吸がどちらもうまい。
 それにしても、オースティン、やっぱりおもしろい。