ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

はてなダイアリーから移行。元は読書メモ、今はツイッターのログ置き場。

DeLi Nr.8(論創社、2007年11月)

DeLi(デリ)〈8〉

DeLi(デリ)〈8〉

 ドイツ文学、特に現代の生きの良い作家たちの翻訳をメインとした雑誌の、第8号。昨年末に出ていたが、ようやく買って読んだ。今回は1947年生まれのテヘラン出身の詩人サイードの詩が冒頭に置かれている。サイードはドイツへの亡命作家。

「詩/人間と獣との間の留め金/みずからあばくものを/恐れなくてはならない者/言葉はその実行犯を待ち伏せし/その者は公衆の面前で欺きの器官をさらけだす」(p.10)


 イルゼ・アイヒンガーの『定かならざる旅』(2005)は、孤高の老作家(1921年生まれ)のコラム集。『より大きな希望』(1948)を学生の頃翻訳で読んで、ナチス統治下に生きる「半ユダヤ人少女」(母がユダヤ人)という自らの極めて重い現実体験が下敷きにある、にもかかわらず幻想的で美しくかつ悲しげな文章に、惹かれた記憶がある。このエッセイも、ニューヨークの9・11などリアルタイムの出来事が取り上げられる一方で、筆者が生きてきた時間、読んできた本、目にしてきた光景などさまざまな記憶が言葉となってそっと自然に置かれている。ローベルト・ムージルの一節から思考を進めて、

「私は戦争勃発時の写真のことを思い出す。無頼漢たち、かれらはとうとう退屈から解放されると信じたのだ、次なる退屈へと傍若無人につき進んでいくことによって。/大切なのは、自分の生活や集団生活のなかで退屈とのつきあい方を学ぶことだろう。見せかけや本物の停滞に、空元気やらでっち上げた忙しさやらを詰め込まないことだろう。」(p.35)


 1965年生まれのマルセル・バイアー、小説『僕のことは忘れろ』(2006)。すてきな短編だ。語り手の男、その友人夫婦。舞台はマドリードファランジストのデモ、フランコ・グッズ、なぜか広告に使われていた友人の子どもの頃の写真、「ザ・シンプソンズ」。私が、彼が今ここにいること(いないこと)、私が友人の妻とふたりでマドリードを旅していること。目の前のモノや光景を必死で捉えようとしていること。確実なのはその事実だけであって、過去の自分・過去の歴史を伝えるメディアと「いまここ」の自分(たち)との関わりは、そのつど創作されるフィクションでしかない。

「ひょっとすると、この時間なら古いシンプソンズの再放送をやっているかもしれない。マージ、ホーマー、バート、そしてリーザとしゃべれない妹。けれど、音を消していたら、そりゃあみんな黙ってるに決まっている」(p.74)。

手を伸ばしてボリュームをひねらなければ、過去との交通は遮断されるほかない。小説は、ここではメディアの沈黙に言葉を与える作業としてある。その不断の作業が小説内の現実をようやく支えている。「フレーム」が変われば、現実も変化する。

「私が待っているのは、こうしたフレームのなか、こうした背景の前で、決して捉えられることのなかったひとりの女の姿だ。」(p.75)

望む人は、確かな存在は、あらわれるのか。「私」は、

「最後に顔を合わせてから十五分そこそこしか経たないのに、もう何年も会っていないかのように彼女を眺める」(p.75)


 そのほか、1970年生まれのオーストリアの作家であるリヒャルト・オーバーマイアー『生を辿る』(2006)。

「私はどこにいるのだろう。何が私と彼と区別するのか、生が彼とともに歩み続ける代わりに私のもとにとどまっていることが私にとってかけがえのないことであるのはどうしてか、私にはわからない。」(p.91)

「私」だらけ・・・そういう小説なのではあるが。ちょっとつらい。
 あとペータ・ハントケの長編『ドン・ファン(彼自身によって語られた)』(2004)の連載2回目、ザイモグル/ゼンケルの戯曲『ヴェールを纏った女たち』、書評など。
 定期購読、申し込まないと。