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よしながふみ『あのひととここだけのおしゃべり』(太田出版、2007年)

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

 『西洋骨董洋菓子店』からの、ちょっと遅れてきた(BLものを読んだことない)ファンとしては、昨年は『フラワー・オブ・ライフ』が完結し(これは昨年の個人的ベストのひとつ、全4巻がこれだけ緻密に構成されてるのは驚き。タイトルが最後の最後にストーリーとからんでくるところなど、うまい!)、モーニングで『きのう何食べた?』が始まり、つまりはどちらも「男・男」関係を描いているわけだけれど、ということは少女マンガはやっぱりあらゆるタイプの関係性を描きうるメディアであり、大きな世界観がまずあってその中で人を動かすのではなく人と人とが関係しあう中から場が立ち上がってくるような、そんな成り立ちを持っているのだなあというようなことを考えつつ、しかし暮れに3巻が出た『大奥』はそれでも骨太な「歴史」をまずは設定していて、これもまたおもしろい、と、いろいろと楽しませてもらったのだった(そういえば、オノ・ナツメも『Danza』が終わって単行本になり、『Gente〜リストランテの人々』は連載が続き、どちらも人と人との関係を短編として切り取っていく、その巧みさを楽しみつつ絵も非常に好みでいいなあと思いつつ、いやむしろストーリーがセンチメンタルに流れそうなところをざっくりとした描線と微妙なバランスのデフォルメが下支えというか上支えというかしているのじゃないか、そしてその一方で連載中の『さらい屋五葉』が時代劇だというのは、よしながふみとちょっと重なってる)。
 『あのひととここだけのおしゃべり』は活字の本、対談集だ。読むと、よしながのストーリー・テリングは彼女のマンガ的教養の深さから生まれてきて(も)いるということが、とてもよくわかる。1971年生まれだが(この本では、自分も含めてほぼすべての対談相手のプロフィールに生年が記されている。全員女性なのに。こういうのってすごく大事なことだと思う)、ベースに「24年組」からの少女マンガ(を含めたマンガ全体)を読んできた歴史がある。加えて、自分は「フェミニスト」だという。そこで言われている「フェミニズム」がどのようなものであれ、それは自分が思考(と創作)において理論的な枠組みを排除しないのだ、という宣言でもある。これを作品に感じ取り、拒否感をもつ人間もいるであろうことは、想像がつく。でも、よしながの過剰なくらいの「語り」の力は、「理論」を力ずくで「魅力」に変えてしまうのだ。登場人物たちにむかって、作者も読者も同時に「かーっ、いい男(女)だねえ!」と言っちゃうのだ。
 対談相手の選び方、やまだないと三浦しをんはそうだろうなと思うし、志村貴子もなるほどと思う(暮れに第7巻が出た『放浪息子』、おもしろい)。最後に登場する萩尾望都は、そこまでの流れから、当然。しかし驚いたのは、羽海野チカ。ふたりはどうやら大の仲良しなんだって。そう、あと、119ページで「その昔、女のお客さんたちが歌舞伎で男同士のラブシーンを観て、ぴしゃぴしゃって股間が濡れる音がしたって言うんだから。」というよしながふみの発言、これって竹熊健太郎の『篦棒な人々』の中で、石原豪人が言ってたネタと同じじゃない? 『篦棒』文庫版が出たのは『あのひとと』のあと。よしながふみサブカルチャー的教養もすごいのかも。