ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

はてなダイアリーから移行。元は読書メモ、今はツイッターのログ置き場。

『避暑に訪れた人びと』

西武線は武蔵関の駅へと出かけた。東京演劇アンサンブル公演『避暑に訪れた人びと ベルリン・シャウビューネ改作版』を観るためである。
陽の落ちたばかりの武蔵関駅前はなんとなしに寂しく、歩いていると昭和の映画の中に入り込んだような気がする。私鉄沿線の、古くからの住宅街。
1904年のゴーリキーによる原作を1974年にドイツ・西ベルリン(当時)の劇場シャウビューネが改作し、ペーター・シュタイン演出で上演した。改作担当は若きボートー(ボート)・シュトラウス。今回の公演は、このシュトラウス版をドイツ演劇の研究者大塚直さんが翻訳して台本とした、と。
3時間を越える長丁場だったが(途中休憩あり)、腰痛気味の腰にこたえるパイプ椅子をなんとかしのぎつつ、でもその長さをあまり感じさせない舞台だったのは、群像劇だが個々の対話ごとに対話する二人に場面がフォーカスされ、全体が断片の集積によって構成されて、最終的にそれらが一点に集中して物語り全体の意味を浮かび上がらせる、そういう仕組みのゆえではないかと思う。
見終わっていろいろ考える。
・どこまでがゴーリキーで、どこからがシュトラウスなのか。作る方は「これぞシュトラウス」と思っているのだとしても、観客にはわからない。わかる必要があるのか、ないのか。
シュトラウスはその時の「現在」を背負って改作したはずだ。では今回の舞台は、どのような「現在」を背負っているのか。「この劇団にいま何ができるのか」ということは劇団が考えることであって、観客には関係がない。観客はこの舞台のどこに今を観るべきか。あるような気がするのだが、それが何かは、まだよくわからない。
・なぜ台本が極端な「翻訳調」なのか。俳優は基本的に、これはセリフです、という口調、セリフをある種突き放した形で発話しているのに、しだいに「リアル」な口調も混じるようになる、リアルなしぐさ、演技も混じるようになるのだが、そのような形にした意味はなにか。
・登場人物たちの強烈な自意識過剰。もちろん現在の我々も自意識過剰なのだが、たぶんそのフェーズが違う。彼らの自意識はそのまま集団、「国家」へと直結する。しかし我々の自意識はまったくそうではない。我々には希望を持ってそちらへと歩み去るべき場所が失われている。いわば、全員が疎外され、全員が取り残されているのだ。グローバル化とはそういうことではないか。
以上について、いろいろと「わざと」していることが多いのはわかる。しかしどこからどこまでが「わざと」なのか、境界線がよくわからなかった。それを考えろ、ということだろうか。もしかしたらこの劇団を見続けてきた人ならわかるのかも。でもそれでは、あらたな観客は参入しづらい。
これらはみな、ぼくにとっての宿題だ。もうちょっと考えてみよう。