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東浩紀・宮台真司『父として考える』(NHK出版 生活人新書、2010年8月)

父として考える (生活人新書)

父として考える (生活人新書)

読了。就学前の子どもがいる二人の学者・批評家が、子育て中の父親という観点から社会や思想を捉え直す、といった趣の本。
どちらの子どもも娘さんである。そして親バカのようである。すばらしい。サブカルチャー論に深く関わり、かたや麻布から東大、かたや筑駒から東大という超エリートコース育ち。そんな彼らが、子育てに積極的に関わる父親として何を語るか、興味があった。そしておもしろかった。
目にとまった部分をとりとめなくメモ:
・子どもが生まれてから、「地域」とか「土地」の問題について気づくことがあったと。

東 大人の場合は結局、いくら引っ越しを繰り返したとしても、それぞれ「かつて住んだ場所」のひとつにすぎない。いまある場所に根を下ろしていたとしても、潜在的にはいつでも動ける。唯一の場所にはならない。ところがうちの娘にとっては、いまたまたま住んでいる「この場所」が原風景になってしまう。(41ページ)

これはぼくもつねづね感じ、考えていたところ。人生の中での「必然」(たとえばふるさと)は「偶然」の産物であること。おそらくそれが、人生のさまざまな場面での真実なのだ。職業選択だって結婚だって、子どもを産むことだって、きっとそう。最初から「必然」を求めていたら、それは永遠に手に入らないだろう。
関連して、「お受験」の問題。私立小学校へ行くことは、その子が持つ地元のネットワークを捨てることを意味する、と。親は子どもについてある選択をするとき、その子にとってのベネフィットとリスクを考えねばならない。
土地に関しては、三浦展の言う「ファスト風土」化、という郊外批判は一面的なのでは、と。文化人の語る「いい町」「いい店」は子ども連れ家族を排除している。ショッピングモールという空間のバリアフリー性。子どもにも安全で楽しめる場所。これも、ほんとうにそのとおり。前にこのブログにも書いたことだが、「公共」は社会的弱者を排除したところには成立しないはずなのに、たとえば「公共でのマナー」それ自体が強者の論理でできていることが多い。エスカレーターの片側あけ、とかね。ユニバーサルであることと多様性とをどう両立させるか。それがこれからの社会の課題か。
・職住接近が重要、仕事と家庭が混ざることが大事、と。「ワークライフバランス」は趣味の時間が増えるということではない。子育て、介護、地域参加などの「相互扶助」に参加するには時間が必要。宮台は、これらはみな「準公的」ないし「公的」な活動だという。「こうした公的活動が織りなす領域がいわゆる「新しい公共」です。」(102ページ)
・これからはコミュニケーション能力が必要。ソーシャル・スキルの能力が求められる。これは主に宮台の意見。
・「おひとりさま」批判。

東 たとえだれひとり助けてくれなくとも、それでも自分ひとりで生きることができる能力を磨く。それを人生の目的にするのは、大きく間違っていると思う(後略)。
宮台 それはまったくの勘違い。もっとも重要なリスクヘッジはひとり寂しく死ななくてすむための関係性を、二重にも三重にも構築しておくことです。(191ページ)

東 女性としての自立は家族への依存と矛盾すると、なんとなく思われている。しかし、それが男性であろうと女性であろうと、他人への依存を否定するところに新しい社会の構想が生まれるはずがない。(195ページ)

どれも同意。しかし、どれも具体化は非常に難しい問題である。社会的インフラや町の構造、教育など、あらゆることに抜本的な組み替えを要求するだろう。
まずは、子どもをもっと社会のさまざまなところ、さまざまな場面に存在できるようにすることから始めるべきではないか。会社や公共の場所(美術館やコンサートホールなども含めて)に託児所を作る、職住接近を目指す、「3歳神話」といった親へのプレッシャーをやめる、などなど。
そういえば、以上ピックアップした論点って、驚くほど内田樹の意見と似ているのだ。おもしろい。