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東浩紀(編)『日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性』(NHKブックス、2010年8月)

日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)

日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)

2010年3月に東工大世界文明センターで行われた2日間のシンポジウムをもとにまとめられた本。第1部は「日本的未成熟の力」と題して、キース・ヴィンセント、村上隆黒沢清宮台真司の発表のあと、東の司会による討議。第2部は「クール・ジャパノロジーの条件」と題して、アメリカのジャパノロジストであるジョナサン・エイブルとヘザー・ボーウェン=ストライク、ドイツのシュテフィ・リヒター、宮台、『ストリートの思想』の文化研究専門家である毛利嘉孝の発表と、クッキ・チュー司会による討議。
この本の性格は、東浩紀の序文にある言葉が簡潔に伝えている。

本書は残念ながら、クール・ジャパン現象そのものについての分析の書物ではない。むしろ、クール・ジャパンについていかに語るか、その語りかたをめぐる書物である。本書がクール・ジャパン現象を扱うのは、その現象を鏡として使うことで、私たち自身の、あるいは世界に点在する日本研究者自身の日本への視線を問い直すためなのだ。(4ページ、斜字体は原文傍点)

クール・ジャパン」をある種「グローカル」かつ「トランスカルチュラル」な現象として捉え、その「機能」が異なる文脈(地域、社会、文化など)でどのように取り込まれているのかを考えること。
ナショナリズム的な囲い込み、分断と線引きへの対抗を常に意識しつつ、国境を越えて広がるネットワークを現象としてどう捉えるか。
こういうことは、たとえば大学でドイツの児童文学について講義をする、などというときには、いつも気になっていたところなのだ。アニメ、マンガ、ゲームといったポップ・カルチャーは「子どもの本」を考えるときにどうしたって関わってくる場面があるのだが、「受容者」の問題も含めつつ日本とドイツの状況を伝えようとするとき、気をつけないとナショナリスティックな視線が紛れ込んでくる。
ドイツにおける「クール・ジャパン」と日本研究の状況について、ライプツィッヒ大学東アジア研究所教授シュテフィ・リヒター氏の報告があり、これはすごくためになった。この問題を考えることが、現代ヨーロッパのモダン・ポストモダンな社会のありかたを探求するひとつの手がかりになる可能性。
東浩紀の『動物化するポストモダン』が英訳されたようで、これが日本とその他の地域とのとりあえずの接点になるのだろうか。