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多和田葉子『尼僧とキューピッドの弓』(講談社、2010年7月)

尼僧とキューピッドの弓 (100周年書き下ろし)

尼僧とキューピッドの弓 (100周年書き下ろし)

「でも、そんな話よりも文学の話が聞きたいです。アイヒェンドルフって、どこがいいんですか」
 と言って流壺さんは、どんぐりが落ちてないか切り株の中をのぞきこむ栗鼠(アイヒホルンヒェン:ルビ)のように、わたしの目の中をのぞき込んだ。家族のことを一人思い悩んで胸を腐らせるのはやめて、からから明るい文学地帯に分け入ろうと樫の樹(アイヒェ:ルビ)のように堅く決心しているのかもしれないが、わたしは流壺さんの娘婿が自殺したと聞いただけでもう気分が元に戻らない。(62〜63ページ)

ドイツ、プロテスタント修道院が舞台。そこに作家である「わたし」が短期滞在するのだが、そこで体験されるのは、修道女というイメージとは大きくずれた、バイタリティあふれる女性たちとの交流だった。
「わたし」を招いてくれた尼僧院長の不在。その不在が不穏を呼び、同時に不在の穴からふつふつと性の息吹が吹き上がる。
語られる尼僧たちのポートレートを読むのは楽しいが、しかし穴の存在がなんとももどかしい・・・
けれど大丈夫。短い第2部で、その穴がたっぷりと満たされるのである。中編なのに、小説を読む充実感をしっかりと味わわせてくれる。
引用した部分にも明らかなように、多和田葉子の作品はなによりもことば、その越境とふしぎに軽やかな変幻自在さ、に魅力があるけれど、しかしそれは「現実」をフィクションのほうに引っ張り込むための仕掛けの綿密さに、しっかりと支えられているのだ。
今回は「フェトフェトに脂ぎった豚の丸焼き」というのがツボにはまった。ドイツ語でfett、フェットというのは「脂っこい」という意味です。