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西江雅之『食べる』(青土社、2010年4月)

食べる

食べる

サッカー、ワールドカップがたけなわ。でも人の熱狂を見るとこちらはすっと冷めてしまうという性格のため、世間から一歩引き気味である。集団とか団体での大騒ぎとか「我が国」とか「国民全員の応援を背に」とかが、だめ。受け付けない。
斜に構えている、お高くとまっている、もちろんそれは自覚しているのだ。こういう性格の故にどれほどつまらない人生を送っているか。集団に所属できずにパートのおじさんとして孤独に生きている者として、その報いは十分受けている気がする。ちょっとくらい斜に構えて、そういうのだめ、とか言ってもいいんじゃないかしら、とも思う。
自分の属する集団に入れ込みすぎると、周囲が見えなくなる。他者への敬意と関心が失われる。
自分の母語とは異なる言語を学ぶ者として、また、自分の属する文化とは異なる文化について考えている者として、そのことには常に意識的でありたい、とも思う。「人間」というものに愛情をもって関わることと、「人間」という存在のありかたをクールに見つめることは、両立するのだ。
その点においてぼくが常に基準とするのが、西江雅之
フィールドワーク中心の文化人類学者、言語学者として数十か国に滞在経験があり、しかもその土地の言葉をたいてい話すことができる、という不思議な天才。その西江雅之が、「食」についてエッセイ風に記した文章をまとめたのが本書である。
かつて平凡社新書から『「食」の課外授業』という本を出しているが、この『食べる』の方はもうすこしざっくばらんに、人間の「食べもの」あるいは食べるという「行為」について語っている。
食べ物こそ、自己集団中心主義の発揮されやすい分野だろう。いかに我々が、自分の属する「文化」に「がんじがらめ」になっているか。それを自覚しない限り、他者への無理解、攻撃、摩擦は続く。
「伝統料理」。天麩羅や寿司だって、それぞれたかだか300年くらいの歴史しかない、と著者は言う。そういえば、ドイツのジャガイモもイタリアのトマトも、17世紀あたりにヨーロッパが南米から持ってきたものだ。

わたしはいつも、「伝統」とは、「ある時代の、ある土地に生きる人々が、目の前に現れた事物に対応し、なんらかの行動を起こそうとする際に、我知らず”拠り所”としてしまう事物である」と話してきました。

それは過ぎ去った過去の事実ではなくて、人びとの中に息づき、その未来に向けた行動を支えるものであるとも言えるのです。

変化をも計算に入れた上で、あるいは変化を恐れずに、クールに対処するときにはじめて「伝統」は生きるのだ。