西江雅之『食べる』(青土社、2010年4月)
- 作者: 西江雅之
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2010/04/23
- メディア: 単行本
- クリック: 14回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
斜に構えている、お高くとまっている、もちろんそれは自覚しているのだ。こういう性格の故にどれほどつまらない人生を送っているか。集団に所属できずにパートのおじさんとして孤独に生きている者として、その報いは十分受けている気がする。ちょっとくらい斜に構えて、そういうのだめ、とか言ってもいいんじゃないかしら、とも思う。
自分の属する集団に入れ込みすぎると、周囲が見えなくなる。他者への敬意と関心が失われる。
自分の母語とは異なる言語を学ぶ者として、また、自分の属する文化とは異なる文化について考えている者として、そのことには常に意識的でありたい、とも思う。「人間」というものに愛情をもって関わることと、「人間」という存在のありかたをクールに見つめることは、両立するのだ。
その点においてぼくが常に基準とするのが、西江雅之。
フィールドワーク中心の文化人類学者、言語学者として数十か国に滞在経験があり、しかもその土地の言葉をたいてい話すことができる、という不思議な天才。その西江雅之が、「食」についてエッセイ風に記した文章をまとめたのが本書である。
かつて平凡社新書から『「食」の課外授業』という本を出しているが、この『食べる』の方はもうすこしざっくばらんに、人間の「食べもの」あるいは食べるという「行為」について語っている。
食べ物こそ、自己集団中心主義の発揮されやすい分野だろう。いかに我々が、自分の属する「文化」に「がんじがらめ」になっているか。それを自覚しない限り、他者への無理解、攻撃、摩擦は続く。
「伝統料理」。天麩羅や寿司だって、それぞれたかだか300年くらいの歴史しかない、と著者は言う。そういえば、ドイツのジャガイモもイタリアのトマトも、17世紀あたりにヨーロッパが南米から持ってきたものだ。
わたしはいつも、「伝統」とは、「ある時代の、ある土地に生きる人々が、目の前に現れた事物に対応し、なんらかの行動を起こそうとする際に、我知らず”拠り所”としてしまう事物である」と話してきました。
それは過ぎ去った過去の事実ではなくて、人びとの中に息づき、その未来に向けた行動を支えるものであるとも言えるのです。
変化をも計算に入れた上で、あるいは変化を恐れずに、クールに対処するときにはじめて「伝統」は生きるのだ。