ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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南河内万歳一座『びっくり仰天街』を観た

喉んとこのグリグリが腫れてなんだか体調悪かったのだけど、授業のあと下北沢に行って南河内万歳一座を観た。ザ・スズナリにて。19時半より。
バンザイは少し久しぶり。そして、とても良かった。
お通夜にやってきた女性3人組。しかし通夜の場所に行こうとして、なぜかあたりを堂々巡りしてしまう。道ばたに積み上げられた家財道具。大家と不動産屋の担当者との会話。アパートの一室に住んでいた人間が消えた。すわ、「事件」か?
突然現れる探偵二人。住人は誰なのか、なにかから「逃げていった」のか、なにかを「追いかけていった」のか・・・。
出口はあらたな入り口であり、入り口かと思えばそこは出口だ。屋根裏は縁の下に通じ、縁の下にもぐれば屋根裏に出る。
この作品世界には、基本的に「外部」がない。たくさんの人物が登場するが、しかしひとりの人間の内面描写とも思える。「内藤裕敬の頭ン中」かも。作品全体が、さらけ出された「内臓」かもしれない。「びっくり仰天街」の入り組んだ街路はそれ自体が「内臓」、かつ人間の内面のどうしようもない出口のなさ。外部は破れ窓からだけ、のぞき見られる(窓は二枚のガラスからなっていて、それぞれが割れている。まるで舞台全体が頭で、窓は目のようだ)。
自分とはなにか。自分の中身をいくら探っても、そこには空白しかない。その空白・空虚は、しかし見る角度が異なればそれに応じて異なる容貌を呈する、さまざまな虚像の重ね合わせ、織物でもある。
たとえすべてが堂々巡りであっても、我々は出口や入り口を探し続けねばならない。ある人の記憶が消えることはその人の死なのかもしれないけれど、しかし再び会えることに希望を託して、失われたものを求め続けるしかない。そのためのエネルギーは、あの「空白」からやってくる。あの「空白」があるからこそ、多様な可能性、多様な生の形が生まれてくる。そうか、これは『青木さん家の奥さん』と同じ構造だ。
ほんの少しだけ舞台に登場する髭の大男。幽霊的印象。舞台上の時空とは異なる世界に属しているように、ふわふわと、超然としている。そしてふわりと「外」へ去っていく。メタレベルの存在。「船が好き」というセリフが、最後になって通夜をされている人間と彼を結びつける。
そしてこの大男を演じるのは作者(作品世界から見ればメタレベルの存在)であるからして、やはりこの舞台は内藤さんの「頭ン中」なのかしら、創立30年で来年は1年お休みする一座の、しばらくあばよ、というメッセージでもあるのかしら。
テツとウルテ・・・焼き肉とこの作品との関わりの謎については、いまのところ手がかりなし。
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個人的にこの作品にはぐっとくるものがあり、体調は悪化したのだった。