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大江健三郎『水死』(講談社、2009年12月)

水死 (100周年書き下ろし)

水死 (100周年書き下ろし)

寝る前に読んでいたら寝付きが悪くなって困ったので、電車の中でこつこつと読んで読了。
大江健三郎、いくつになっても飛ばしているのである。難解なところはぜんぜんないのに、危うい感じにあふれている。「大江健三郎全作品」をフォローしていないとなんだかわからない、という内容をしれっと書いて、しかし、はらはらどきどきさせてくれる。
重要な登場人物について、今回、ひとり、「けり」がつけられた。結末は、ほぼ主人公ともいえる女性に関する部分はちょっとどうかなという気もするのだけれど、それも含めての大江であろう。
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大江健三郎に続くノーベル文学賞受賞の可能性が盛んに語られた村上春樹だが、『1Q84』はおもしろいという感覚とそれはないだろうという思いが重なって複雑で、このブログに感想を書きそびれていたのだが、両作家はどこか似ているとずっと感じていたのだ。
大塚英志は「構造」だと言った。物語論的構造を意識して小説を書く作家の代表として、このふたりの名前を挙げている。
昨年末に出た、渋谷陽一編集の雑誌「SIGHT」2010年冬号、年末恒例の特集「ブック・オブ・ザ・イヤー2009」。文芸・評論編は、高橋源一郎斉藤美奈子の対談なのだが、そこでも『1Q84』が語られるなかで、大江健三郎の名前が挙がっている。そして、ここでもやはり、「構造」がキーワードなのである。

高橋 (・・・)つまり、小説の構造の問題なんだけど・・・村上春樹さんって人は、ある意味戦略的に、自分の無意識を利用していると思うんです。大江健三郎さんもそうですね。自分自身に対して嘘をつける。作家としては最高のやり方ですよね、それって。

高橋 僕は、変な話、村上さんって、小説の中身なんかどうでもいいと思っているんじゃないか、という気がするんだよね。
斉藤 そうでしょうね。
高橋 だからそこは、大江さんとはまったく違った方向で、乱暴なんだけど。要するに、小説とかフィクションを作るときの、通常のやり方ってあるでしょ。前衛的な作家でも、オーソドックスな作家でも共通してる。でもね、大江さんと村上さんに関しては、わかんないとこがいくつもある。それはもう、乱暴とか野蛮としか言いようがない部分があるってことなんだけど。

高橋源一郎の今回の評を読んで、昨年まとめて読んだ大塚英志の論と併せて、自分なりに納得できた部分がかなりあった。大江健三郎にも村上春樹にも、ひどく惹かれる部分と反発を覚える部分がある。そこに「構造」とか「乱暴」といった補助線と引くと、見えてくることが確かにありそうだ。
自分が今いる位置・場所に自分がいることの違和感。自分が否応ない形でそこにいる、その場所に自分がフィットしていないという感覚。大江にも村上にも、それがある。