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岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書、2009年6月)

 クラシック音楽を中心に、「聴き方」つまりは鑑賞の「型」を指南しよう、という本。感性にゆだねるのではない、学習すべき「聴き方」の枠組みがある、というのである。こういうタイトル、テーマの本は、ありそうで、ない。それはもちろん、クラシック音楽堅苦しいものではありません、好きなものを、好きなように聴きましょう、というほうが販売戦略的には(コンサートのチケット、CD、本)求められるだろうからだ。
 以下、メモ。
 音楽における「する」「聴く」「評する(語る)」の分離。18世紀まではたくさんあった、アマチュアでも弾いて楽しめる作品が、19世紀になって減っていく。演奏はプロに。また、批評は批評家に。「市民階級」としての聴衆はもっぱら享受するのみの存在となる。その背景には、ドイツ・ロマン派による「音楽の聖化」がある。音楽において言葉は無力だ、というイデオロギー
 19世紀、国民国家の形成。固有の文化から生まれた国民の音楽、は「国境」を越えて自分たちの文化を「普遍化」させようとする。ここにもイデオロギーか隠れている。
 19世紀には、「作曲家(の「作者」としての意図)」や「作品」が後世に伝えるべき文化的ストックとして意識されるようになる。そこに生まれるのが、近代の音楽院である。フンボルトの影響下にメンデルスゾーンシューマンによってライプチヒ音楽院が設立される。
 引用。「人は歴史的文脈なしで音楽を聴くことは出来ない。「音楽を聴く/語る」とは、音楽を歴史の中でデコードする営みである。」(168ページ)・・・おそらくこの部分が、本書の中心的主張だろう。形式に関する知識と、歴史に関する知識の必要性。これは、どんなタイプの「芸術」においてもあてはまるはず。
 ソナタ形式ロンド形式など。Umwelt。知覚枠。頭の中に「形式」をあらかじめ備えていないと、音楽は音楽に聴こえない。上演の場も、形式のひとつ。コンサートホールは、18世紀末の市民社会の成立とともに生まれた。「それは新しく生まれた近代市民に、音楽を通して一体感を与える制度であった。」(178ページ)音楽の社会学。・・・音楽も、演劇も、文学も、18世紀末から19世紀にかけて近代市民社会国民国家の成立に「制度」として関わった。何かが失われた代わりに、われわれは豊穣な成果も手に入れた。
 今、「枠組み」が変化しつつあるという予感の中で、過去の作品を「聴く」ということの意味・方法論をあらためて確認しておく、というのはとても大切。音楽だけのことじゃない。あらためてそのことを確認できた本だった。