ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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筒井康隆とトーマス・マン

 もはや眠くて朦朧としているが、今日書いておかないと忘れてしまうので。
 朝日新聞の日曜日読書欄に連載されている筒井康隆の「漂流 本から本へ」、12回目の今日は、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』(1901)を、戦後間借りしていた祖父の家の「二階のひと間の蒲団の中で読み耽った」という話だった。昭和7年刊の世界文学全集に入っていた、成瀬無極訳で。筒井康隆は、豪商一家が「ドイツ・ブルジョワジイの崩壊とともに没落していく姿」を自分の境遇と重ねて読みつつ(筒井家も没落した藍問屋だったのだと)、マンの描写を「鬼気迫るもの」、「圧巻」だと感じた、と語る。
 筒井康隆に自分を重ねるということではもちろんないのだが、「世界文学」といわれるものの中で、とりわけ長編ということでいうと、ぼくが初めて夢中になって読み耽った作品が、この『ブッデンブローク』だったのだ。北杜夫経由+担任の先生のサジェスチョン、ということだったか。高校1年の時だ。
 エンタテイメント系、ファンタジー系、SF系では長いものを読んでいたし、『三銃士』とかいった類のも読んでいたし、ディケンズメルヴィルなどだって読んでいたが、なんというか、思想と芸術の問題がこれでもかとつまった、しかもドキドキするほど圧倒的な言葉の力、描写された世界の厚みを感じさせるこの物語によって、ああ、「小説」の力ってこういうものなのか、とわかったような気が(あくまでも「気が」)したのだった。つづいてすぐに『魔の山』も読んだ。面白かった。
 以前のエントリーで、19世紀ドイツにおける演劇と「国民劇場」の成立、なんていうことを少しメモしたが、その成立を支えた19世紀的な「国民」=「市民」の時代が20世紀に入って終わっていく、トーマス・ブッデンブロークの死はその意味での「近代市民」の終焉を象徴しているのだ、とあらためて確認しておきたい。
 それにしても、そのトーマスの死の場面や、あるいは自分の理解できない芸術の世界に息子ハンノが母ゲルダと消えていくのを切なく眺めるしかない父の描写、そして物語の終わりの女たちのやりとり、などなど、なんと印象的なことか。美しい言葉、場面がいくつもある。
 だが今、岩波文庫『ブッデンブローク』は品切、と。