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ロバート・ウェストール『水深五尋』(岩波書店、2009年3月)

 原書は1979年刊。「本邦初訳」「宮崎駿監督の書き下ろしイラスト満載!」が大きくフィーチャーされている。

水深五尋

水深五尋

 ウェストールを初めて読んだ。初めて読むものとしてこれが適切だったのかどうかはわからない。作者の力量は疑うべくもない。ドイツのスパイはどこの誰なのか、というミステリー的要素を持たせつつ(その探索行のきっかけとなる「装置」が、また男の子心をくすぐるのだ)語られる冒険もの少年物語の王道的ストーリーは、間然とするところがない。悪友、そしてなぜか寄ってくるお嬢さま。引き込まれて一気に読んだ。翻訳のタイトルもいい。
 読み終わって、いろいろと考える。第二次世界大戦、その時代の雰囲気は日本とずいぶん異なるようだ。人びとの暮らし。白旗を揚げての降伏、敵国の兵の扱い。日本の戦争物におけるような悲壮感、切迫感が(あまり)ない。
 それにしても、これは「男の子」の話だ。語りの視点は主人公の少年チャスに置かれている。とすれば、男の子が大人の男になる物語? それはどうだろう。
 登場する女たちは、息苦しい家庭から逃れてチャスにそこからの解放を期待するが、やはり父のくびきからは逃れられない、いいとこのお嬢さん。チャスの元同級生で新聞記者の、しかし男との関係が暗示される女性。最後には純粋な人間だとわかる、売春婦(の元締め)。いつもがみがみ、しかし最終的には夫に頼る母。などなど。彼女たちの、この物語が終わって以降の人生はどうなるのか、語られることはないし、暗示もされない。物語的には放り出されたままになる。
 むしろみな、主人公の冒険が語られるための物語的書き割り、という扱いを受けているようにも思える、と言えば言いすぎだろうか。
 いちばん引っかかるのは、売春宿の女主人ネリーに降りかかった運命と、ドイツのスパイだった人間の運命をチャスが秤にかけ、結局、「何もしない」ことでネリーの死をまったくの無駄死ににしてしまうことだ(読んでないひとにはわかりにくくて、もうしわけない)。もちろん彼なりの理屈はあるのだが。最高に大切な場面で、行動しないことを選択する、その展開に少し納得がいかない。
 最後の場面で、主人公チャスは「父さん」と一体化する。このふたりは、「何もしない」男たちなのではないか。チャスは一見行動的だが、よく見ると常に状況や他のだれかに引きずられ、助けられているだけのように見える。父は階級や社会的格差に疑問を持ち、そういう関係の本もたくさん読んでいる。しかし、それに基づいて何か行動している様子は語られない。
 チャスは、世の中、見かけと本質は大違いなのだと思う。何もかも変わってしまったと感じる。しかし、ひとりだけ変わらない人がいる、と最後に気がつく。父だ。
 少年が大人になるための精神的な支柱、という意味はあろう。けれど、物語的には、始めと終わりでなにも「変わらない」。そして階級社会も、格差も、女たちの立場も、物語のなかで変化の兆しが語られることがない。基本的構造が似ているクルト・ヘルトの『赤毛のゾラ』と、その点が大きく異なるように思う。
 などと考えながら読み終わって、続けて訳者あとがきを見たら、「チャスはそのなかでたくましく成長する。最後のチャスの決断が、それを鮮やかに物語っている」とあった。うーん、そうか・・・。その「たくましさ」とは、現実と折り合いをつけて生きていくたくましさ、ということなのかも。