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宇仁田ゆみ『うさぎドロップ 5』(祥伝社、2009年1月)

うさぎドロップ 5 (5) (Feelコミックス)

うさぎドロップ 5 (5) (Feelコミックス)

 30歳、女子と子どもが苦手な独身男ダイキチが、祖父の「隠し子」である6歳の女の子、りんを引き取って、不器用な「父親」生活が始まる。りんは保育園から小学校へ・・・そんな形で始まった物語は、この第5巻から「第二部」として、10年後へとジャンプした。
 つまり、ダイキチは40歳に、りんは高校1年生になったのだ。4巻を読み終わった時は、このかわいい6歳のりんをもっと見ていたかった、と思ったけれど、5巻を読んで、なるほど10年のジャンプがこの物語に物語としての多層性を与えることになった、と感じた。うまい。
 独身男性がいきなり6歳の女の子の「親」になる、というその危なっかしさが子育てというものの「現実」を逆にクリアに浮かび上がらせる、という仕掛けが第一部の物語を進める原動力であり、おもしろさだった。子育てしつつ働くということ、「親をやる」ということ、親同士の間で自然に生じる連帯感、などなど。
 その、ある意味新鮮な最初の1年ほどでいったんすぱっと話を終えて、おそらく非常にやっかいであろう小学校高学年から中学生という思春期をひとまずすっとばして、高校生のりんを見せる。
 おそらく作者がこれから描きたいのは、10年の間に乗りこえてきたことと、10年たって大人への入り口に立ったがゆえに生まれてくること、そのふたつの密接な絡み合いなのだと思う。
 ダイキチがりんを引き取って育てたのはその時点では最善の行動であると、物語はわれわれに判断させる。しかし、16歳になったりんには、その「幸せ」と引き替えに失われた(かもしれない)もの(たとえば、仕事や結婚などを含めたダイキチの人生)が見えてくる。
 第一部で、その伏線はいくつか張られている。大吉の母は典型的な「専業主婦」のイメージで描かれているけど、実は子どもを産むことで仕事をあきらめた(あきらめさせられた)女性だった、とか。
 あるいは、第一部の最後で、小学校の親仲間にダイキチはこう漏らす。自分はまだ「親」になって日が浅いけれど、他のみんなはずっと前から親をやっていて、

いわゆる自分の時間とか・・・/ずっと無くても平気でいられるのかなって・・・

 すると親仲間たちは、くちぐちにこう言うのだ。

「子どもとの時間も自分の時間なので・・・/大事な」
「人の親だからって特別なことは何もないんじゃないかなぁ」
「だいたいそこら中 見渡したらお父さんお母さんだらけだよ」

 そして4巻最後のダイキチのセリフが、

これ・・・やっぱ犠牲とかとちょっと違うような・・・/そんな気持ちになりつつある31歳の春

 また、りんと幼なじみのコウキとの関係、コウキの母とダイキチとの関係は恋愛になりそうでならないペンディング状態であって、これがこの先の物語の核になりそうなのだけれど、それも親ひとり子ひとり家族の、しかも子育ての激動期であろう小学校・中学校の「10年」がもちろん大きく関わっているわけで、やはりこれは過去と未来が複線的に語られる物語としてこれから展開していくのだろうし、5巻の最後で少し語られはじめているのだ。
 いや、うちにも小学校低学年がいるけれど、まだわからないだろうと思って今までいろいろとごまかしてきたことが、おそらくこれからさまざまな形で返ってくるんだろうな。そんなことを考えさせてくれる「子育てまんが」は、あんまりなかったんじゃないかと思う。