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山本史郎『東大の教室で『赤毛のアン』を読む』(東京大学出版会、2008年12月)

娘が『赤毛のアン』を読んでいた。妻もつられて読んでいた。村岡花子訳のやつである。ほう、と思っていたら、本屋でこのタイトルが目にとまった。

東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章

東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章

副題が「英文学を学ぶ9章」。『赤毛のアン』やトールキンジェイン・オースティンディケンズシャーロット・ブロンテジェイン・エア』といった英文学の古典的作品を取り上げて、原文にあたりつつ「英文学の読み方入門」を講義する、という内容だ。
「作者の意図」が文学作品における「言語的表現」としてどのように実現されているかということ。そして、その「作者」がイギリス文学の伝統のなかに生きていた存在であるということ。この本で展開されているさまざまな分析の中心は、以上の2点にある。
「作者の意図」に関連して、著者はあとがきで作者と読者あるいは読者間には立派に「コミュニケーション」が成立しているとし、「いかなる約束事(コンベンション、文中ルビ)、あるいは「言語」によって、文学におけるコミュニケーションが成立しているのだろうか?」という「文学的コンベンションの研究」に興味がある、と言う。
というような考え方の著者が、東大で行った講義をもとにして書いた本、である。
その「先生口調」がちょっと・・・という人もいるかもしれないなあと思いつつ、なるほどと思う部分がたくさんあって、勉強になった。原文を、作者が語った言葉そのものをじっくり読み込むことで初めて見えてくるものがある。あたりまえのことだけれど、おざなりに、あるいはなおざりにしがちなことでもある。
おもしろかったのは、やはり、『アン』の章。著者によると、村岡花子の『赤毛のアン』(=『アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ』)では、第37章が「大胆に書き換えられている」のだという。「場面の描写をはしょって、要約で済ましている」のだと。特に、マリラに関わる場面が。それはなぜなのか? 著者はその理由を、「語りの口調」と、E.M.フォースターが『小説の諸相』で行った小説の人物の分類、「フラット」と「ラウンド」を手がかりにして、推理していくのである。詳細は本書を読んでみて欲しいが、ことは「翻訳」の難しさに関わっていて、なかなか興味深い。ただ、実際にはどうだったのかは、まったく調査されてないようである。
そう、「フラット」な人物の口調の例として、佐々梨代子さんと野村先生の『子どもに語るグリムの昔話』(こぐま社)から「灰かぶり」のまま母のセリフが引用されているのだけれど、佐々さんの名前が「佐々木」となってる。巻末の参考文献でも同様だ。直して!