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森真一『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(ちくまプリマー新書、2008年1月)

 ある種の「やさしい」人とは、傷つくことを恐れて自己防衛する人間であることは、それはもう自分を振り返ってみても、そうだ。そして、あの人は無神経だと感じつつ、そのような人が放つ、これもある種の魅力に、あこがれを感じつつ傷つき、そしてまたあこがれる。
 かつてそれは、個人的な性向のひとつのバリエーションに過ぎなかっただろう。しかし、そのようなもろく傷つきやすい自己が現在ではデフォルトになってしまっている、人同士が関わるときにどうしても発生してしまう「傷つけ合い」を認めつつその修復の希望を常に持ち続けるのではなく、そもそもはなから「傷つける」ことを「予防しよう」という行動様式が特に若い人に広まっている、という社会学的分析が、本書での森真一の認識だ。森は、前者を「やさしいきびしさ」、後者を「きびしいやさしさ」と呼ぶ。
 筆者が例に挙げるのが、たとえば「謝るくらいなら、最初からするな」という言い方。ここには、積極的なアクションをおこした結果としての葛藤をへて修復にいたることこそが成長なり「わかりあい」なりにとって必要なのだ、という認識はない。「わたしを傷つけないように今努力しろ、傷つけたら許さない」という「きびしさ」のみがあるだけだ。だから、「きびしいやさしさ」なのだと。
 今、目の前の相手に、とりあえず「恥をかかせない」ということ。そこに人はエネルギーを注ぐ。結果として、できるだけ上下関係を生じさせないように気を配り、場の空気を読み、孤立を避けるために「キャラ」を(なるだけかぶらないように)設定する。それが暗黙のルールとなり、もしそれを破る人間が現れれば、ときには暴力をふるうということにもなる。電車の中でケータイで電話しているのを注意されるとき、それはその暗黙のルールが破られたこととなり、暴力によってルール破りに対して制裁を加える理由が生じる、ということになる。
 

 ちょっと話はずれるかもしれないが、本書の最後の方で著者は、犯罪も暴力も傷つけ合いもない、「パーフェクトにやさしい社会」を実現したければ、「人間を家畜にしてしまえばいい」のではないか? と言う。そこで気がつくのは、以上の話は東浩紀が『動物化するポストモダン』などで展開している分析と、ある部分で重なっているのではないか、ということ。データベース化された「キャラ」のストックという「現実」の中で生きている「オタク」たち、タコ壺化した狭い世界の中でそれなりに幸せに生きている人たち。
 先々月出たばかりの『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』(講談社現代新書、2008年8月)は、東浩紀大塚英志との、ほとんど不毛と紙一重の、しかしそれなりに興味深い対談集だが、それぞれ異なる個人が意見をぶつけ合うことで初めて「社会」なり「公共」なりが生まれる、とする大塚と、ネット時代においてはそれは不可能な状況になりつつある、とする東と、徹底的に議論がすれちがう。
 「傷つきやすさ」、「やさしさ」は、単に道徳とかマナーの問題に留まらないのかもしれない。もっと根本的な人間の認識・行動様式の、社会システムの、地殻変動に関わっているように思える。秋葉原の事件の背後にも、その変動は感じられるのではないか。
 個人的な問題としては、自分の娘に何をどのように伝えていくべきか、ということを考えねばならない。