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「國文學」誌8月臨時増刊号(學燈社)(2008年8月)

いま、「子どもの本」あるいは「児童文学」を語るのは、ちょっと難しい。それはもちろん、恐らく1970年代から始まる「大人」の「子ども化」の進行が行くところまで行っていること(サブカルチャーのメインストリーム化がそれと平行している)と、ケータイやネットに引きずられるようにして情報の面で「子ども」のアクセスしうる領域が広がっていることを背景としているだろう。
湯本香樹実川島誠あたりからだろうか、従来の児童文学というくくりから微妙にはみ出す作家が登場しはじめ、森絵都梨木香歩あさのあつこなど、芥川賞直木賞といったところで話題になる作家たちも現れてきた。あるいは、『ハリー・ポッター』は大人の本・子どもの本というくくりで語れるだろうか、まあファンタジーはそもそもそういう存在であるとしても。
いやそれはある種のレベルでの話で、「子どもの本」の供給と消費のシステムの土台は揺らいでいない、ということなのか、それとも、探偵とか魔女とか霊とか天使とかバトルとか超能力とか泣いちゃいそうとかやたらシリーズものであふれる小学生向け新書版「文庫」だらけの書店児童書コーナーが、伝統的「児童文学」の解体のひとつの現れであるのか、どうなのか。
以前、1985年(昭和60年)発行の「國文學」誌、特集「〈子ども〉の文学博物誌」をこの場で取り上げたことがあった(http://d.hatena.ne.jp/hndm64/20080113/1200237049)。今回の特集は、「〈子ども〉の文学100選」。やはり今度も、「児童文学」という枠にこだわらず、「子ども」という存在と文学との関わり、というスタンスでの編集である。巻頭の、和田忠彦と野崎歓との対談がおもしろい。『クオーレ』と『ピノッキオ』との対比。あるいは、

たとえば、わたしたちが知っているゴシック・ロマンの要素を、いま確実に、多くの読者に知らせることができているのは、じつは狭義の児童文学かもしれない。

という、和田の発言。安藤美紀夫とカルヴィーノ。フランス・イタリアでの日本アニメの影響(ウエルベックにまで!)。子どもの文学の、「老人文学」とのリンクの可能性(「大人げなさの文学」、大江健三郎ブライアン・オールディス)。『海』誌での「子どもの世界」特集に関連して、

カウンターカルチャー的なものの隆盛があって、文化の読み直しが盛んだったある時期、子どもが大いにクローズアップされましたよね。けれど、概念装置としての子ども、観念装置としての子どもという見方が、有効性を持ちすぎたのではないか。いまの文学における子ども、子どもの文学のほうが、ごくごく具体的、日常的であって、それでいてその中に異次元を期待させている。

という、野崎の発言。どちらも、「可能性」としての「児童(と)文学」を示唆して興味深い。
あと、天沼春樹が、「ドイツの「戦争児童文学」」というタイトルで、ドイツの子どもの本の中から戦争をテーマとする作品の系譜を解説している。
和田忠彦編の、「〈子ども〉の文学75選」(前半の論考部分に、25本の作品が紹介されているらしい)は、15のテーマ×5つの作品。テーマの選び方がすてき。ほとんどは、いわゆる「大人の本」。