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武富健治『鈴木先生 5』(双葉社、2008年8月)

鈴木先生 5 (アクションコミックス)

鈴木先生 5 (アクションコミックス)

教育を扱ったフィクション、小説なりテレビドラマなり、あるいはマンガなり、は、結局のところ、どうやったってユートピアに(あるいはディストピアに?)ならざるを得ない。であろう。キャラクターが成立した瞬間に、ストーリーはある結末へ向かって収束しはじめる。
しかし、現実での教育、あるいは子育ての場面では、そもそも個々の子どもがひとつの「キャラクター」として定位することがない。もうさ、瞬間瞬間変化する人たちなのよ。さらには収束すべき結末なんてものもない。そこでは、すでに存在する「処方箋」は常に裏切られつづけるのだ。
竹富健治のこのマンガのオビには、ノンフィクションライターの人が「今もっとも処方箋が必要とされているこれらの難題に」、「誠実に」「真正面から」向き合った漫画だ、と書いているのだが、このマンガはまじめに読んじゃいけないと思うなあ。マンガ評論家、研究家たちがけっこうほめている作品だが、そのほめ方はだいぶ高度なというかマニアックなというか、なんとも一筋縄ではいかんほめ方なのであって。いや、そのノンフィクション作家も、解説を読むとそのあたりのことはわかっているようだけど。
この作品は、作者の作為が表面に浮き出ているタイプのマンガだ。そしてそれは、作者が意識してそうしているのだ、ということがさらに表面に浮き出しているマンガである。その象徴が、たとえば鈴木先生のいつもしている、ループタイ。ワイシャツだけじゃなくて、とっくりセーターにもしてる。これはつっこみたいけど、でもつっこめば作者の術中にはまるような気がして、つっこめない。
物語として、平気で反則も犯す。この第五巻でも、心理劇なのにそれはやっちゃいけないだろう、ということをしてる。たとえて言えば、リアリスティックな麻雀ものに、いきなり透視能力を持った人間が出てくる、みたいな。でもそれも、作者はわかったうえでやっているように見える。
からして、おもしろいのでやっぱり買って読んでしまうのだが、今ひとつ楽しめない、のである。しかしその楽しめなさもまた、この作品の魅力であるところが、もうなんだかわからない…。
小川家家庭訪問の回は、あざとくて、楽しかった。でも、中学生が阿波踊りを踊る同級生を見てぽおっとなるかな…。いや、よさこいとかかっこいいと思ってやってるんだとすると、そういうこともあるのか。