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宮下規久朗『刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ』(NHKブックス、2008年4月)

刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ (NHKブックス)

刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ (NHKブックス)

日本で「ヘアヌード」というものが登場し、なんだか街を歩いていても電車に乗っていても雑誌を読んでいてもやたら女性のヌード(やそれに近い)写真が目につくようになったころ、ドイツに留学して、ちょっとびっくりしたことがある。
街には女性のヌードの広告写真はたまにあるけれど、日本のように見るからにエッチな写真を目にすることはないし、公共の場所でそのような写真の載っている新聞・雑誌を見ている人もいない。ところが、テレビをみていると、たとえばニュースで「ヌーディストスキーヤーのためのゲレンデがオープン」なんてのをやってたりする。映像では、一糸まとわぬ男女がスキーだけ履いて滑ってくるところを下から映していて、もうそのまんまが映っているのだ。途中で誰か、マタ開いて転んだりして。
あるいは、雑誌好きとしていろんな雑誌を買って読んでいたところ、老舗の女の子雑誌の「Bravo」とか「Mädchen」とか眺めていたら、「今週の男の子」みたいなコーナーで、男の子がこれも一糸まとわぬ姿でポーズを取る立ち姿の写真が出てたりして、面食らう。
「裸」というものに対する感覚がずいぶん違うんだな、と、思ったことだった。そういえば、大島渚の『愛のコリーダ』ノーカット版もドイツで観た。
宮下規久朗の『刺青とヌードの美術史』は、幕末から明治にかけて、そして現在まで、日本人の「裸体」に対する感覚がどのように変容したのかを、美術のなかに探ったものである。具体例を豊富にちりばめつつ、時にはちょっと大きめに風呂敷を広げて多様な要素を論の中に取り込んでいく、非常に魅力的な本だ。
「ヌード」とは、西洋に固有のジャンルである。単に服を着ていない状態を指すnakedではなく、身体において理想の「美」を具現化しようとする、美術のいちジャンルとしてのnude。心身二元論を前提とし、かつアレゴリーや象徴の体系を背景として、成立する。
一方日本では、明治になって政府が西洋の視線を受けて禁じるまで、裸体は日常にあふれていた、という。しかし、それを凝視することは道徳として強く避けられていた。見ていても、見えない、裸体。ゆえに「覗くこと」がエロティシズムを産むことになる。
そこに西洋の「凝視する」視線が到来し、その不作法な視線に裸体は隠されるべきものとなり、裸体は性的な意味をまといはじめる。その中で、「芸術としてのヌード」という観念、いやそもそも「芸術」というものさえ未確立だった時代に、芸術家たちは浮世絵に代表される従来の伝統からも、西洋の体系化された伝統からも切り離されたところで、「ヌード」を描こうと苦闘する。その様子が、非常にわかりやすく説明されている。おもしろい。
この本のハイライトは、「生人形」と「刺青」だ。刺青はともかく、生人形というものの詳しいところを、はじめて知った。大上段に「日本の伝統」という形でよく挙げられるものは、日本が生みだしてきた文化の(もちろん重要だが同時に)ほんの一部でしかないのだ、ということが、あらためて実感される。「唱歌」について以前ここに書いたけれど、明治になって切り捨てたものは、たくさんあるようだ。