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平松剛『磯崎新の「都庁」』(文藝春秋、2008年6月)

磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ

磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ

結婚するまで住んでいた親の家が常磐道入り口の近くにあったので、水戸芸術館へは大学時代からけっこう気軽に行っていた。たいていは、現代美術の展覧会。磯崎新の設計になるその空間は、中にいるとふしぎと落ち着く。庭に出て、噴水に浮かぶ巨大な石と、目の前にそびえる、回転しながら天へと伸びる正四面体の軌跡=タワーを眺めると、背後の建物の幾何学的な構成も加わって、こちらの体もあるリズムを刻みはじめるような感じがする。
それから、利賀村の「利賀山房」と「野外劇場」。利賀フェスティバルを観に行ったのは、やはり大学のとき。誘われて連れてってもらったんだけど。1980年代半ばのことだ。時はまさに「ニュー・アカ」、ポストモダンの建築家として、磯崎新の名前を、よくわからぬながらも、口にしていた。しかし、そのわからなさに反して、実際に利賀の空間に身を置くと、心地よさを感じるのがふしぎだった。
この『磯崎新の「都庁」』は、磯崎新が新宿副都心に建てられる都庁舎のコンペに参加し、敗れるさまを、伝記的な要素を交えながらたどっていくノンフィクションである。
この本の最大の特徴は、建築家が設計し、それが現実の建物として立ち上がるまで(この場合は立ち上がらなかったわけだが)を、極めて具体的に、実際に即して描いているところにある。あたりまえ? でも、主人公が磯崎だと、それはかなり意図的な語り口なのだ。そもそもこの本には、「ポストモダン」という言葉がどこにも出てこない(と思う)。そこは語らない、という方針が全体にわたって貫かれているのである。そして、それは成功している。おもしろい!
あのとき、磯崎新の都庁案は、あまりに理念的、「ポストモダン」的で、非現実的であるがゆえに落選した、というイメージだった(少なくとも、ぼくの理解はそうだった)。しかし、この本を読むと、磯崎やアトリエのスタッフたちが自分たちの設計案の実現を目指して真剣にとりくむ、その苦闘のあとがよくわかる。敵役(?)の丹下健三と対比させることで、磯崎建築の持つ意味が、難しい言葉を使わずともクリアになってくる。この磯崎案が実現していれば……。
そう、磯崎新は「言葉」の人であり、思想の人だ。しかし、ぼくのように建築をちょっとした興味からのみ眺めているような人間は、どうしてもその言葉に引っかかって、現実の建築物にストレートに向かって行きづらい。その意味で、この本の語り口はすごく良かった。最後、丹下設計のフジテレビ本社ビルをダシにした「オチ」が付いているのもいい。
建築って、あたりまえだけど、図面がそのまま形になるわけじゃない。社会資本でもあるわけで、そこにはさまざまな人間、組織が関わり、実現まで紆余曲折があり、構想は変形していく。そのことがよくわかる。むしろ建築は、実現されなかったものの中に、建築家の理想が保存されている。考えてみれば、ふしぎなジャンルだ。だからこそ、おもしろいのかも。そういえば、新都庁舎は建ってからたったの十数年で雨漏りがひどくなり、抜本的に修理すると、建てたときの費用と同じくらい(1千億くらいだったか)かかる、維持費も高く、問題化している、というニュースを前に読んだな。