ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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いまさらながら、KYについて

例によって、上から目線で取り上げてしゃぶり尽くしてこき下ろして、という大マスコミとくいのマッチポンプによって消費されてしまった「KY」という二文字だが、しかしこの言葉(?)によって、なるほど、と思うことが教員というものをやっているとあるわけで、この語が完全に忘れ去られる前に、メモしておくことにする。
それは、おそらくこの「KY」が、他人とのコミュニケートの欲望と拒否とを、同時に語っているのではないか、ということだ。
具体的にいえば、教室の中で接する学生たちのなかに、教師や他の学生たちとのコミュニケートの「切断」を、あからさまに、意志的に、態度であらわす人間が年々増え続けている、ということ。そのような学生は、常に数人のグループを作っている。授業の流れとは関係なく、そこだけの親密な場を作っている。
たとえば、そのなかのひとりを指名して、課題をやってもらおうとする。たいていこちらの話は聞いていないから、すぐにはできない。ここで彼らに特徴的なのは、問いかけている、話しかけている教師のほうをまったく見ず、語りかけてもそれを無視し、周囲の仲間とのみなにやらやりとりして、つまり教えてもらって、これから答えるという合図もそぶりも見せずに、いきなりぼそぼそと答え始める、ということだ。
もしその途中でこちらがさえぎれば、無表情な沈黙がかえってくるのみである。そしてこれもほとんどの場合、気まずそう、すまなそうな表情だったり、困惑した表情だったり、をするわけではない。なにを言ってるんだこの人は、という顔をしている。
彼らグループのなかには、確かに「空気」がある。しかしそれは、今現在自分(たち)が置かれている状況、たとえば授業という文脈だとか、教室という空間だとか、つまりは他人とのパブリックな共通の土台とは、まったく関わりなく形成されている。おそらく、「KY」の「空気」とはそのようなものであるのだろうと、想像するのである。
極私的領域での、時間的空間的文脈とは切り離された、ある種の親密圏。これが瞬間的に生成し、消滅している。そんな状況が、「KY」という言葉の背景にあるように思える。空気を読む、ということで一般的に連想されるのは、パブリックな(異質な他者のいる)空間のなかで自分がどうふるまうかを意識せよ、ということだろう。だがここでは、公共空間で個人がオープンにコミュニケートしつつ相互に場を作っていこうという態度が欠けている。あるいは、拒否されている。場をわきまえろ、と言う大人たちがしかし「KY」には妙な違和感を覚えるのは、このズレが原因なのではないだろうか。
つまり、「KY」とは「今この場のこの瞬間の、オレたちの空気を読め」という要求を背景とした表現、のような気がするのだ。そのつど生成される「空気」に入れない者は、排除される。ゆえにここでは、一般的にイメージされるような他人とのコミュニケートはむしろ拒絶されているのである。ぎりぎり最後に残る、なけなしの親密圏を、必死で確保するために。
それはそれで、たいへんにしんどいことではあるなあ。