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大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書、2008年4月)

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

 ひとつの時代のなかに相矛盾する両極端の現象が見られるとき、現実的には人は片方をとりあえずカッコにくくっておきつつ目の前のもうひとつを眺めようとするだろう。自爆テロ、少年の不可解な殺人、あるいは「下流」の人生を打破するために戦争を語る若者の声、といった極限の「暴力」を見聞きする一方で(大澤はこれを「現実からの逃避」ならぬ「現実への逃避」と呼ぶ)、たとえば「美少女ゲーム」、あるいはインターネット、携帯電話などによるバーチャルな世界、そこにおける「体験の虚構化」がますます進行していること(大澤の言葉では「超虚構化」)もまた知っている。
 しかし、その両極端が、ベクトルは正反対でも質と量において等価であるとき、その背後には共通の「何か」が隠れているのではないか。その「何か」こそ、今われわれが生きている時代を根底で規定しているものなのではないか。そんな思考過程に立って、その「何か」を探る試み、それが本書である。
 戦後を「理想の時代」、70年代から95年あたりまでを「虚構の時代」、そしてそこから現在までを「不可能性の時代」と区分した上で、1968年と1997年に起きたふたつの少年犯罪や、オウム事件、オタク、「リスク社会」や「監視社会」、近代的家族の崩壊と家庭内殺人、「美少女ゲーム」、多文化主義原理主義(信仰と神)といったあらゆる社会的事象を俎上にのせて、いつもながらのアクロバティックな、しかし説得力ある論理で、らっきょの皮をむくごとくに大澤真幸は時代のベールをはがしてゆく。
 スリリングなのは、「何か」を極端な形で排除しようとする試みの果てに、その「何か」の回帰が生じるさまを具体的に示してみせるところだ。反転、反復、回帰。この運動が、一見して正反対の現象を生みだしていく。キー・ワードは「アイロニカルな没入」、「第三者の審級」。
 現代の閉塞感を打破する可能性を(たとえかすかなものだとしても)最後に示して終わるところに、著者の社会学者としての責任感が見てとれる。今時珍しい、内容の濃い新書だ。この本を読んでいたぼくをのぞき込んだ娘が、「うわあ、ふせんだらけ」、と。