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ベンノー・プルードラ『マイカのこうのとり』(岩波書店、2008年2月)

マイカのこうのとり

マイカのこうのとり

 Benno Pludra ベンノー・プルードラ(ベノ・プルードラという表記もされる)、ドイツの児童文学で大好きな作家のひとり。この『マイカこうのとり』は、ドイツで1991年に出版された。
 この作品が翻訳されたので、取り上げて紹介しようとずっと思っていたのだが、自分にとって大切な作家なので、気軽に書くことができなかった。本格的に書き始めると通常業務に大きな差し障りが出そうなので、思い切って簡単に。
 1925年10月1日生まれ、かつての東ドイツを代表する子どもの本の作家。西ドイツでも評価が高く、統一後の1992年に、この『マイカこうのとり』がドイツ児童文学賞を受賞。そして1994年には、同じドイツ児童文学賞の特別賞を授与された。これは、ひとりの作家がその全作品を通じて表彰されるもの。
 今回の『マイカこうのとり』出版に合わせてだろう、岩波少年文庫に入っていた『ぼくたちの船タンバリ』(旧版1998年、新版2008年)が新版で再び出た。原書は1969年。ふたつとも上田真而子訳。また、そのほかに未知谷という出版社から森川弘子訳で、3冊出ている。今手に入るものとしては、もうひとつ、『海賊の心臓』がある。若林ひとみ訳、大日本図書、1995年(原書は1985年刊)。また、品切れのようだが、『白い貝のいいつたえ』(1985年、評論社、原書は1963年)が上田訳で。代表作は、上で挙げたものと『ズンデヴィト岬へ』(2004年、原書1965年)だろう。
 ぼくは、留学していたときに出ていた大学のゼミで『海賊の心臓』が取り上げられ、これはすてきな作品だ、と夢中で読んだ。『白い貝のいいつたえ』は(日本語で)読んでいて、それも気に入っていたのだが(ヴェルナー・クレムケの挿絵がこれまた良い)、これでがぜんファンになってしまった。
 『海賊の心臓』は、ファンタジー的な性格を持つ作品だ。主人公は、母とふたり暮らしの女の子イェシイ。あるとき海で拾った石が、彼女にむかって「自分はかつての海賊の心臓だ」としゃべり出す…。これは、子どもの成長の一断面を切り取った話であり、また「疎外」をテーマとした小説でもある。石としゃべることが原因となる少女の周囲からの孤立、母子家庭の社会からの孤立、そして不在の「父」(こいつはまったく不思議な登場の仕方をするのだ!)に対して求める、自己の存在の承認と許し。重いと言っていいだろうテーマが、詩的な言葉でつづられていく。
 石はどうしたか? 実は、グリム童話の救済者のように、劇的にイェシイを助けてくれるわけではない。むしろ、なんにもしない。しかし、その存在が子ども時代の一瞬に主人公と切実に関わり、彼らをして確実に成長のステップを一段上がらせる。こういう、あたかも「触媒」のような存在が出てくるという点で、『白い貝のいいつたえ』や『マイカこうのとり』も共通しているのだ。具体的には、ぜひそれぞれの作品を読んでみて欲しい。『タンバリ』に登場する帆船も、大きく見ればまさにそんな役割を担っている。大人から与えられるのでも、大人によって引っ張り上げられるのでもない。子どもたちは、苦しみ悩みながら自分で大切な何かを見つけ、それと関わり、別れる。そのプロセスののち、彼らは未来への扉をひとつ開く。
 あと、どの作品でも、小さな男の子と女の子のあわい関係がさりげなく描かれているのに、オジサンとしては惹かれるのである。かわいいんだ。それが『マイカこうのとり』では、コウノトリと6歳(くらい?)の少女マイカの関係と重ね合わされて、「あかちゃんはこうのとりがはこんでくるの」段階から次のステップへ、という……いや、これから読む人のために、このへんでやめておこう。
 ドイツ語が読める人なら、できれば原文を読んで欲しいと思う。リズムが心地よい、すてきな文体だから。