ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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ベニサン・ピットにてTPT『ミステリア・ブッフ』を観る

 冬のように寒い雨のなか、桜はその彩度を落としてなお華やかに咲いている。ベニサン・ピット近くの公園に咲く桜を眺めつつ、劇場に入る。2時より4時半すぎまで。
 マヤコフスキーの『ミステリア・ブッフ』。今タイトルを書いて気がついたが、「ミステリヤ」じゃなくて「ミステリア」となっている。キリル文字の、Rの左右ひっくり返ったやつだが、発音は「ya」だったような。「ヤー・チャイカ」の「ヤー」だし、そもそもマヤコフスキーの「ヤ」の文字だ。でもロシア語は読めないから偉そうなことは言えない。「ア」になる理由があるのだろう。
 台本・演出は木内宏昌(敬意を込めてここは敬称なし)。演劇プロジェクト「青空美人」を主宰し、劇作家・演出家・翻訳家として活躍している。TPTでも数多くの公演に関わっている。そして、ぼくの高校の同級生。木内くんの芝居始まってる、もうすぐ終わりじゃん、と気がついて、押っ取り刀で駆けつけた、雨の千秋楽。
 芝居の感想は、直接木内くんに言う機会があればそこで言おうと思う。楽しんだ。俳優たちのがんばりが心地よかった。
 舞台上(といっても、向かい合う観客席のまん中のフロアで演じられている)で進む芝居に触発され、頭にとりとめないあれこれが浮かんでくる。今や世界は、現状と未来を国家として単純に「言祝ぐ」ことのできる国と、そうでない国に分かれてしまった。地球温暖化の問題、あるいは環境問題それ自体が巨大資本の論理で生み出され動かされていく時代に(エネルギー産業と政治、穀物の値段の高騰など)、われわれの抱く「危機感」はどこまでが「切実」で、どこまでがマニピュレートされているのか。グローバル資本主義に対抗する論理は、どこかでナショナリズムの影を帯びざるを得ない。世界企業の用意する商品、その快適な椅子から無言で立ち上がって、ではわれわれはどこに座ればいいのか。
 「革命」。格差社会のなかで生きる術と機会を奪われていると訴える若者が、希望は戦争しかない、そこにしか「革命」的な逆転のチャンスはない、と「論壇」で発言し、論争を呼ぶということがあった。しかしそのような閉塞感は、一方で甘美な「ひきこもり」の世界と隣り合っている。確かに「キタナイひとびと」にはまったく手の届かない、情報と手段と資本を囲い込む世界がある。けれども、そこから排除されつつしかしそこに進んで欲望を備給することでしか「生の実感」を味わえないという状況のなかで、静かに立ち上がって自ら「社会」から退場していく人々が確実に存在する。退場といっても、無限の階梯を一段降りるくらいなものなのだが。もはやここには、単純な対立構造はない。さてそこで「革命」とは?
 一言だけ。今回の芝居は整理されたスケッチのように思えた(これを実現させるにはたいへんな苦労・苦心があっただろうことは想像できるけれども)。さらに混沌とした、乱反射するような、完成品が観たい。