ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

はてなダイアリーから移行。元は読書メモ、今はツイッターのログ置き場。

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『パレルモ、パレルモ』

 新百合ヶ丘のテアトロ・ジーリオ・ショウワにて、14時より17時まで。今日が初日である。
 『パレルモパレルモ』は1989年の作品で、世界の転換点において作られたものであると同時に、ピナ・バウシュの仕事の転換点・到達点のひとつ、とも言われる。演出上、上演できる舞台に制限があり(具体的には、冒頭で崩れ落ちる巨大な壁に耐える床)、この新しい劇場がそれを満たしていたため、今回はここでの上演となった、と。
 まあ、ピナ・バウシュに関しては、ここで説明や解説する必要などないだろう。
 90年代以降の作品ではダンサーをゆったり踊らせることの多くなったP・Bだが、この作品あたりまではいわゆる「ダンスらしいダンス」がほとんどない。しかし、やはりこれはぎりぎりダンスである、ということを確認しよう。初演から20年近く経たあとでこの作品を観る意味は、そのへんに(も)あるはずだ。つまりは、音・音楽と動きの関係を意識しつつ、最終的には身体の「動き」を成立させることこそが目指されている、ということ。
 ダンサーの個性、あるいは社会、男女関係、ディスコミュニケーション、幸福と不幸、疎外、などといったさまざまな「テーマ」がダンサーの「行動」という形で「表現」される、というのが一般解なのだろうが、あまりに「表現」という点ばかりが強調されすぎている気がする。むしろそのような背景は、ジェームズ・ギブソン言うところの「アフォーダンス」の場として機能していると言ったほうがよいのではないか。
 要は「行為」と「場」の相互関係であり、ダンス/身体的動きとそれをアフォードする環境世界を共起させる空間として、舞台がある。あるいは、「パレルモ」という都市がある。個々のダンサーは、同じ環境の中にそれぞれ異なる意味を見いだす。もっと言えば、ダンサー固有の行為の特性が場の中に意味を生じさせ、同時にその生成した意味場を読み取ることによって、固有の動きが発見される。どちらが先とも言えぬ円環構造が舞台上にダンサーの数だけ立ち上がり、それらが共振することで舞台全体が分節されていくのである。そして最後に取り出されるのは、身体の動き(とそのアンサンブル)なのだ。そのスリリングを、ぼくは快感とともに味わう。
 ピナ・バウシュたち、新百合ヶ丘で夕飯食べてるのかしら。