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マンガ評論書2冊、続けて読んだ

 ほぼ同時期に出版された、マンガの評論書。ひとつは伊藤剛『マンガは変わる』(青土社、2007年12月)、もうひとつはいしかわじゅん漫画ノート』(バジリコ、2008年1月)。

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

漫画ノート

漫画ノート

 同じ「評論」なんだけど、伊藤の本が、序のタイトル「『語り』から『論』へ」から見て取れるように、あるいは出版社が青土社であることから推察されるように、「研究」なり「理論」を指向するものであるのに対して、いしかわの本はどちらかというと「エッセイ」あるいは「書評」といった趣のものだ。これがどちらもおもしろい。
 伊藤剛は、2005年9月に『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版)という大著を出版、「表現論」を掲げての骨太な取り組みが、反響を呼んだ。「マンガを自律した表現としてとらえる」(『マンガは変わる』288ページ)という試みは、マンガ評論において夏目房之介らによって開拓されてきた分野におけるひとつの大きな達成と言っていいだろう。彼の作品内在的、あるいはジャンル内在的批評は、しかしマンガやアニメのいわゆる「二次創作」、「萌え」、「やおい」、「ボーイズ・ラブ」といった諸現象の中に分け入ることによって、いわば現場から抽出してきたものをベースに持っているということが、この『マンガは変わる』を読むとよくわかる。彼の言う、マンガにおいて「記号」としての「絵」が「リアリティ」を獲得していく、という現象は、個人的にはグリム童話でマックス・リューティ言うところの登場人物たちの「平面性」と、彼らがたとえばディズニーのアニメなどを通じて「キャラクター」化し、ある種の「リアリティ」を獲得していくという現象とつながるかな? なんて思ったりして、興味深かった。1967年生まれ、名古屋大学理学部地球科学科岩石学鉱床学講座卒業とか。芸術と鉱物の組み合わせは、ドイツ・ロマン派に親しんでいるぼくとしては、不思議でもなんでもない。
 いしかわじゅんの方は、実作者が評論する、というところにアイデンティティがある。実際に創作する者にのみわかることがある。それはたぶんそうなのだろう。「彼は、ある時、気づいたのだ。」「見つけてしまったのだ。」というような言い回しの中に、いしかわの文章の説得力が凝縮されている。そこには創作する者の喜びがストレートに表現されているし、同時にあふれんばかりのマンガへの愛が、その過剰さが、読む者をして「そうかな」と納得させちゃうのだ。おそらく「ギャグ」を描くマンガ家ということと、評論活動とは、結びついている。ギャグ、「笑い」は、覚めたまなざしを持ちつつ同時に理性を括弧に入れて自分をさらすという「離れ業」の結果として生まれてくる。北野武爆笑問題太田などの場合もそうだろう。そうだ、あと、いしかわじゅんはテレビの常連だから(「マンガ夜話」を筆頭に)、その肉声にこちらがなじんでいることも、この本の「語り」が生き生きと感じられる理由のひとつなんだろうな。