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文芸誌「海」子どもの宇宙(中公文庫、2006)

文芸誌「海」子どもの宇宙 (中公文庫 (Z6))

文芸誌「海」子どもの宇宙 (中公文庫 (Z6))

 1982年12月に刊行された、中央公論社発行の文芸誌「海」の臨時増刊号「子どもの宇宙」を文庫化したもの。「中央公論新社創業120周年記念企画」のひとつ、だそうだ。雑誌の方も持っているが、今回は文庫を読み返した。
 全体は三部構成で、「対話」として北杜夫×辻邦生大江健三郎×山口昌男。前者はサン=テグジュペリ星の王子さま』を中心としての文学談義。後者は「原理としての子ども」と題して、文学の中で「子ども」というモチーフの持つ意味を論じている。「子ども」と文学(もちろん児童文学にとどまらない、小説一般の話)との関わりについて考えるための視点として、ここに提出されている論点は今でも思考のたたき台として有効だと思う。見出しを追ってみよう。異文化としての子ども、われわれの内なる子ども、子どもと文学の問題、子どもの神話的な原風景、失われた子ども、母と子の神話性、創造する者の子ども性、子どもの始原的恐怖感、子どもを介しての表現、『ピノキオ』が喚起するもの、永遠の子ども、被害者としての子ども、日本文学が失っていた神話性、スケープゴートとしての子ども、子どもを描いた『源氏物語』。盛りだくさんだ。小説の創作にとっての「子ども」という存在の意味が大江によって語られると、やはり説得力がある。ピーター・ホリンデイルの『子どもと大人が出会う場所 本のなかの「子ども性」を探る』(柏書房、2002年、原書1997年)とも、こちらは子どもの本中心だが、関わってくる問題だろう。
 次に「評論」として5つの論がくる。野坂昭如川本三郎岸田秀奥本大三郎北山修。最後には、「あなたにとっての童話、子どもの文学を一冊あげてください」という設問への回答としての短いエッセイ群。雑誌では、このほかに創作やミヒャエル・エンデの講演記録などが掲載されていた。
 現在、「子ども」に関する発言が聞こえてくるとしたら、それは犯罪(加害者、被害者として)か教育問題ついてがほとんどではないか。この雑誌が出された時代に取りざたされた「子ども」も、現在の状況でのそれも、ある種架空の存在であるのは同様に見える。しかし、「子ども」が商業的な「ニーズ」あるいは「需要と供給」の枠組みに(教育の現場においてさえ)絡め取られてしまっている現在においては、「大人」と「子ども」との間の回路をつなごうとする努力が切実に求められているだろうし、そのような議論の出発点としてこの時代の「子ども論」を参照することは、意味があるだろう。
 メモ。大江健三郎は、岩谷小波はだめだと。辻邦生が子どもの頃読んだのは、アラビアン・ナイトアンデルセントルストイの民話、グリム童話、ハウフの童話などだとか。