ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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先週末に読んだマンガ2冊。

 これはちょっと、完結してからじゃないと何か語る気にはならないかな。今はただ、すごいとうなるのみ。

 『残酷な神が支配する』『バルバラ異界』と、中・長編を続けて描いていた萩尾望都の、最新短編集。「シリーズ ここではない☆どこか1」というサブタイトルが示すとおり、日常に重なるように存在する異界をテーマとした作品集である。今年の7月刊だが、買いそびれていた。というか、前2作を夢中で読んだ記憶が、一見したところよくあるモチーフを手慣れた筆致でさらっと描いたように思える短編集に、手を伸ばすのをちょっとペンディングさせていたのだ。しかし『プルートウ 05』を手に取った、そのすぐ上の棚にこの本があるのを見て、二つ重ねてレジに持って行った。
 やっぱり、おもしろい。以下ストーリーを書いてしまうが、本全体のタイトルにもなっている「山へ行く」、特になんということもない話を、こうさらっと描いて、すてきな短編に仕上げる力のすごさ。最初の3コマの、微妙な違和感(小さめに3つ同じ大きさのコマを横に並べ、1コマにはひとりずつ上半身アップのみ描かれる。最初のコマの母親に対して、父と娘が1コマずつ、同じ構図・ポーズでズレのある語りかけをする)が、主人公の「思い」と「日常」のズレを予感させる。山へむかう主人公には「日常」が押しよせ、結局山へはたどり着けずに終わる。最後の1ページ半にその押しよせた日常のあれこれがすべてぎゅっと詰め込まれ、そして残りの半ページは枠線無し、デザイン画のような幻想的イメージで、世界を状態に「ここではないどこか」へ解放して終わる。うまい。これぞ短編の醍醐味。
 一転して最後の「柳の木」は、最初から最後まで見開きを均等に四等分したコマ割りで構成されている。これは、「舞台」なのだろう。ここでは枠線は、プロセニアム・アーチだ。そして、ところどころにクローズ・アップが挿入されるとはいえ、基本的にはコマの内部空間も厳密に規定されている。まずは、上下。上はある男性の人生が、幼年期から壮年期まで、単純な人の行き来のみで描かれる。下部には、川辺の柳の木の下にたたずむ、傘を差した若い女性。そして左右、舞台で言えば上手にあたる右は男性の故郷、ホームであり、下手側、左は外の世界。男性の、人生の各ステージで外の世界に出て行き、ホームに戻るという繰り返しを、下部にいる女性は眺め続ける。結末において、この上下はどうやら上=生の世界、下=死の世界だということがわかる、という仕掛けだ。
 ストーリーと言うほどのものもない、この話をひとつのまとまりとして提示し、しかも読む者の感情を動かすためには、厳密に組み立てられた結構が必要、ということなのだ。右から左へ読み進める日本のマンガでは、視線の「ホーム・ポジション」は右側であり、左へ向かって物語が進行する。ゆえに左側は、未来であり、外部となる。たとえば歌舞伎なども、この上手と下手の関係は同じだ。だから下手には花道があり、外に開いている。
 そのほかにも、柳の木と死者、死者の成仏ということで言えば能の「隅田川」や「遊行柳」を連想させるし、最後の場面での男性の台詞「あなたが・・・/急にいなくなって/捨てられた・・・と/恨んだりしたこともあったけど・・・」からはその女性が自殺に類するような死を遂げたらしいことが暗示されるが、柳の木と若い女性の悲劇的な死とくればオフィーリアだろう、とか、柳の木の下で傘を差してあるものを「がんばれよ」と眺めているのは小野道風かしらとか、単純な道具立てでさまざまにイメージさせるのが、ほんとうにうまい。
 「ここではないどこか」は、実は、もし存在するとしたら、「いまここ」にしかない。悪夢であれ、ユートピアであれ。それが、萩尾望都のあらゆる作品の、基本的観念だ。ぼくはそれに、深く共感する。そうだ、「駅まで∞〈ムゲン〉」に、ぼくがそこの幼稚園に通っていた神楽坂の赤城神社がでてくるのが、ちょっとうれしかった。あの境内に立つと、ぼくの心は「ここではないどこか」にふっと溶け出していくような気がするのだ。

PLUTO 5 (ビッグコミックス)

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山へ行く (flowers comicsシリーズここではない・どこか 1)

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