ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

はてなダイアリーから移行。元は読書メモ、今はツイッターのログ置き場。

クリストフ・マルターラー『巨大なるブッツバッハ村 ある永続のコロニー』を観た。

「フェスティバル/トーキョー」、ひとつだけ、マルターラーを観に行った。S君と連れ立って。劇場に入る前にロッテンマイヤーたちをちょっと覗く。おお、みんな同じ格好のロッテンマイヤー・コスチューム。しかしお茶する時間なく、中劇場へ。
以下、ツイッターで書いて前回のブログにも転載したけれど、改訂版を。

まずアンナ・フィーブロックの舞台装置がすごい。「発酵産業研究所」と看板の掛かった巨大な建築物。内と外が奇妙にパッチワークされた異空間。高い天井、大きく開かれつつ、しかし閉じられた3つのガレージとガラス張りの部屋を持つ建物。女性が6人、思い思いの場所に場を占めて開演、なにかが欠けたような建築的情景の中に動かぬ女性たち、まるでキリコの絵画のよう。

それは同時に空虚な時間でもある。時をかろうじて進めるのは、音楽。ゆえに音楽は、単なるBGMではなく、舞台の骨格を担うものだ。コミュニケート不全・崩壊、経済の不調・破産。単調かつ反復される行為のさなか、ときたま俳優の中に生まれる感情がユーモアを生じさせる。カシオ(?)のキーボードで奏でられる音楽の、俳優たちの奏でるアカペラのハーモニーの、奇妙なうまさ、心地よさが、しかしもの悲しさをも引き起こす。美しく、寂しい。

単発的・突発的な悲しみ、笑い、怒り。小さな「コロニー」の中で確かに人は生きているが、その生は分断され遮断され、ガレージの中で窒息する。「発酵 Gärung」とは生物の生の営みだが、その生成物を「産業 Gewerbe 」として利用し奪い取る人間、そして破産によって生の営みの生成物を差し押さえられ奪い取られる村人(?)たち。ユーモラスかつ脅迫観念的な俳優たちの行動を「研究」するように覗き観察している自分に気がつき、そのとき舞台上と観客席とは反転する。最後は音楽や行為の果てのない反復の中で深い悲しみをたたえつつ、断ち切られるように終わる。限りなく退屈だが、恐ろしく記憶に残る、体験したことのない世界だった。ビデオでもいいから、他のものが観てみたい。