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村上春樹『1Q84 BOOK3』(2010年4月)についてとりあえず

書いておかねば。

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

だいぶ前に読み終わってはいたのだ。しかし書いておきたいと思う言葉が浮かんでこない。おもしろかったのだ。それは確かなのだが、どこが? と考えて、困る。
強烈な「宙吊り感」。あらゆるモチーフが、希望と絶望の両面を伝えてくる。登場人物たちは、生のあとの死、あるいは死のあとの生を生きている。(たぶん)青豆も、天吾の父親も、看護婦の安達クミも。そして死んだ牛河の口からはリトル・ピープルが現れて空気さなぎを作り始める。
文章それ自体には曖昧なところが一切ない。比喩も含めてすべて直接的であり、意味の読み取りに苦労するところがない。三人称の語りで、かつ視点人物が規則正しく交代する。世界をできる限り客観的に描写するための手法があからさまに駆使されている。
クリアな文体で、どこにも落ち着き先のない、宙吊りの世界を描く。こういうアクロバティックなことができる作家は、村上春樹以外にはいないのではないか。

「希望のあるところには必ず試練があるものだから」と青豆は言う。(48ページ)

試練の先に行き着く(はずの)、希望の成就。メルヒェンの構造を示唆しつつ、しかし青豆と天吾のふたりはもとの世界に戻れたのか? しかし、「虎の姿は反転している」(591ページ)。
出口はないかもしれない。しかし井戸は掘り続けねばならないし、高速道路の非常階段は登り続けねばならない。それは希望なのか、絶望なのか。なにも信じないことが必要なのか、なにかを信じることが必要なのか。
しかし天吾の父親、あれなんなんだろうなあ。読み終わってなにより気になって仕方ないのは、青豆と牛河のところにドアを叩いて集金に来る、あの場面なのだ。意味わかんないけど、でもこれはこの小説に絶対必要に思える。

*****

「宙吊り感」は今の日本を表す言葉でもあるかも。
普天間基地の問題にしても、新聞やテレビニュースをいくら見ても、この問題を考えるための材料はほとんどまったくと言ってよいほど与えられない。アメリカの軍人の顔色をうかがって基地は必要だろうと政府を批判し、沖縄の人々のノーを伝えつつ政府を批判し、クリアな解決などありえないこの問題に悩む政府を決断力がないと批判する。どういうこと? 
ベルリンでは、5月1日にネオナチのデモ行進があったらしい。それにたいして多くの市民が"Nazi, raus! ナチども、失せろ!"と声を合わせた、と。
スポーツ選手の中でもとりわけ頭の悪そうなのを選挙に担ぎ出す政党、それを「無党派層対策のため」としれっと書いて済ますマスコミ。ひとをナメるのもいい加減にしろ。ああくやしい! 

(追記。『BOOK4』は出るのか? というお遊びが巷でなされているようだが、印象としては、この巻で完結しているように思える。我々はこれから、反転している虎の姿を折に触れて見つけて、本当にここにいていいのか? ここがいるべき場所なのか? と自問することになるのだ。)