ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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長ネギ問題

 日々のお買い物を実践するにあたって「長ネギ問題」を避けて通れないことは皆さんご存じのことと思う。
 ぼくは夏休みのあいだ、午前中家でなすべき日々の課題をこなし、昼に外へ食事に出て夕飯の買い物をして帰る(食事の後は喫茶店で読書することも多い)というのが日課である。
 左手に本屋の袋、右手にスーパーのレジ袋を持ち、帰宅する小学生と杖をつきつつ散歩する老人たちとぼくと同じように買い物袋を下げた主婦たちに混じって家までの道をてくてく歩く、のが日常のひとこまであるのだけれど、そこでぼくも頻繁に「長ネギ問題」に直面することになる。
 長ネギは、どうしたって買い物袋から飛び出すのだ。それは仕方ないとしても、その青いというか緑というか、の部分が飛び出していることが、なぜあのような落ち着かなさというかいたたまれなさというか、を感じさせるのだろうか。
 思えば、大昔の4コマ漫画などでは、奥さんのお買い物かごからは必ずネギが飛び出していたような記憶がある。われわれの文化では長ネギは、買い物帰りの主婦を表す記号として機能していたのだ。その定型にはまっている自分を客観視してしまうことが問題なのだろうか。
 長ネギは、たとえば冷や奴の薬味や味噌汁の具といった極めて日常的な食材であり、それは日本の「一般的家庭」の、家族そろった夕べのワンシーンを連想させる。その意味でなんというかプライベートな空間なり生活なりを想像させるアイテムなのかもしれない。それをお天道さま輝く昼間の道ばたで人目にさらしつつ歩く、という行為が気恥ずかしさを呼ぶのだろうか。
 これがたとえばフランスパンなどであれば、飛び出していたってどうということはない。むしろ誇らしげに飛び出させている人だって、かつてはいたくらいのものだろう。おフランスざんす、と言えばみんなシェーッと驚くのだ。しかし長ネギはむしろサザエさんである。日曜の夜、テレビのなかのほのぼの家族をながめつつ、ああ明日から学校か、会社だよ、とため息をつくほのぼの家族、を象徴してしまうのである。
 長ネギ問題の解決はなかなかに難しい。
 ええと、セロリに関しては、まん中の節のところでへし折ってから袋に入れてます。