ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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明治の演劇と「国民」

 論文書き、続く。ドイツ語圏の演劇について、「近代演劇」の始まり、「国民劇場」、国家と市民、なんてことを考え、そして今度は日本の番と、いろいろ本を読んでいたら、兵藤裕己『演じられた近代』(岩波書店、2005年)がどんぴしゃだった。
 副題が「〈国民〉の身体とパフォーマンス」。もちろんぼくには、これになにか付け加えるだけの知識はない。ひたすらこれに準拠するしかないかな。
 唱歌や体操の教育をベースとしつつ、日本に「国民」が立ち現れてくる次第を、演劇改良会、川上一座と新派、そして新劇運動とたどりながら、具体例豊かに描きだしていく。「啓蒙のプロジェクト」の演劇的あらわれ。
 この3月に出たばかりの、佐谷眞木人『日清戦争 「国民」の誕生』(講談社現代新書、2009年3月)にも、「川上音二郎日清戦争」という章がある。日清戦争を契機として、日本人の感じる「リアリティ」のあり方が決定的に変化してしまった、と。そこで歌舞伎は完全に「古典」となり、代わって川上劇的なものが近代のリアリティを再現するようになる。その背景には、新聞や写真といったメディアの普及がある。
 あとは、曽田秀彦『小山内薫と二十世紀演劇』(勉誠出版、1999年)、小笠原幹夫『歌舞伎から新派へ』(翰林書房、1996年)、松本克平『日本新劇史』(筑摩書房、1966年)など。