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高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(岩波書店、2009年2月)

 高橋源一郎は、「文学」についてひたすら考え続けている作家である。ほとんどの「作家」は、「文学」とは何か、なんて考えることなく作品を書いているんじゃないだろうか。わからないけど。
 高橋源一郎は、自分が属しているところの日本の文学の歴史を考え続けている。明治20年前後に形をなした、自然主義的リアリズムをつづる日本語を基盤とする文学、を。
 「歴史」? それって死語ですね? というのが昨今のゼロ年代とかの感覚であるらしいが、高橋源一郎はそこを突き放すことなく真剣に受け止めて、「次の千年の文学」を考えようとする。

大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)

大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)

 以下、目次。

はじめに − 『大人にはわからない日本文学史』のできるまで
一日目 「文学史」を樋口一葉で折りたたむとすれば
二日目 「文学史」が綿矢りさを生み出した
三日目 小説の文章が最後にたどり着いた場所
四日目 自然主義をひっぱたきたい
五日目 「日本文学戦争」戦後秘話
六日目 小説のOSを更新する日
七日目 文学史の「晩年」から次の千年の文学へ


 「歴史」がその内部の人間に、ある一貫性をもって認識されるには、その「歴史」を成立させている「制度」なり「システム」が連綿と続いていることが必要である。そこでは、「文学史」を眺めるということはその「制度」あるいは「システム」の成り立ちを探るという行為に等しい。
 もうひとつ。「歴史」は「比較」という作業においてはじめて立ち現れてくる。いくつかの具体例の中に共通の要素を見つけ、歴史の各切断面においてそれがどのように機能しているのか、いたのか、確認すること。
 ゆえに、「歴史」はその内部の人間に対して、常に事後的にしか認識されない。いま「歴史」や「過去」が捉えがたくなっているとしたら、それは「システム」が切り替わりつつあり、「比較」が意味を失いつつあるから、なのかもしれないのだ。
 高橋源一郎は、樋口一葉綿矢りさを比較しつつ彼らの寄って立つ基盤としての「システム」を確認し、田山花袋の『蒲団』と「ケータイ小説」の『恋空』を比較しつつそのようなシステム、すなわち「小説のOS」が「更新」されつつあるのではないかと語り、志賀直哉太宰治中原昌也を比較しつつこれまで確実にあった「共同体」の「歴史」が消滅しかかっていることを浮かび上がらせる。
 つまり、素材や道具立ては一見奇抜だが、しかしこれは非常にオーソドックスな「文学史」なのである。
 同時に、あくまでも現役の作家として思考していることが、この本を、未来を視野におさめたアクチュアルな考察としているのだろう。高橋源一郎自身は「大人」じゃない、ということなんだな。