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南河内万歳一座『ジャングル』

下北沢はザ・スズナリにて、南河内万歳一座公演『ジャングル」を観た。
座長で作・演出で朝青龍内藤裕敬さんは、怒っている。
いらだっているのではない。冷静に、芝居の目で、世の中を見る。
主にマスメディアに乗って流される、白か黒かに単純化され、
これしかないと押しつけられる「社会」のイメージに閉じこめられる我々。
(我々は、例えばテレビという「小穴」から、外を覗くしかない。)
万歳一座は、舞台の上にうっそうとしたジャングルを出現させ、
多様な出自の人間たちを閉じこめる。
あまりにベタだが、異様な迫力と説得力でうむを言わせない。


人々の前に、座長は、朝青龍となって突如出現し、圧倒的な暴力で
縮こまる人間たちをなぎ倒す。
この、得体の知れぬ暴力とは、なんなのか。
ここに至って舞台は、舞台上の人間たちと観客に、
それにどう立ち向かうのか決断を迫り、
芝居の成り立ちとしては、多様な解釈を呼び込む結節点を生み出す。

引用されるたくさんの同時代的事件・事象は、
それらを解釈し利用するために導入されるのではない。
作り手が生きている世界を、舞台上の人間たちも
(演劇的に)生きている、ということにすぎない。
しかし、我々の世界でその背景・原因が語られ解釈されクリアにされ納得される一方で、
「演劇」の世界は、それってそんなに単純なものかよ、そこにある「わからなさ」をひとりひとりが引き受けることによってしか、生きていくベースは確保できないんじゃないか、と告げる。
万歳一座の持つ、演劇に対して持つぎりぎりの信頼感が、そこにはある。


この芝居を観てすぐに、秋葉原の事件があった。
おそろしいのは、ひょっとして、もう現実には朝青龍は、
この芝居のような形では出現しないのかも、ということだ。
閉じこめられる場にさえ、仲間はいない。
迫力とオーラを放つ「暴力」もない。
あるのは、人を効率、能力、数値によって差別化し記号化する視線であり、
その視線は家庭、学校、社会の中で正義として増殖しているが、
それが暴力であることも、その起源も、うまく見えなくなっている。
対抗しようと放つ言葉は、ケータイの先の虚空に、だれにも届かず消えていくのだ。


残虐な事件だが、その残虐性は、マスコミの流す「あのすてきな○○さん」が殺された、というところにあるのではない。
我々の生きる「今」の一部にそれは食い込んでいる、がゆえに無気味なのである。
内藤さんなら、この事件をどう舞台に取り込むだろうか?