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橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、2011年5月)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ドイツで、どうしてもいまひとつピンとこないこと、それは町の中心に必ず教会が建っていることだ。歴史的な経緯、つまり理屈としてはわかる。でも、実感として、そのようにあるひとつの「神」を信仰することが社会の成り立ちのまん中にある、ということがふしぎ。
年中行事も、祝日も、どれもこれもキリスト教。政権党も「キリスト教民主同盟」。美術館に行っても、キリスト教のモチーフで溢れている。
「西洋」の、「近代社会」の背後にあって、それを成り立たせているキリスト教について、単なる知識以上のなにかを知りたい。しかし、意外とそれに応えてくれる書物は少ない。
この本は、その点で、なるほど、と思うことが多々あった。対話形式で、読みやすくもある。すべてが「正解」ではないのかもしれないが、社会学というジャンルから見たキリスト教解説、というスタンスがけっこうヒットなのではないかと思った。
たとえば、「奇蹟」とオカルトや呪術とは違うのだと橋爪は言う。神が創造したこの世界は隅々まで合理的で、完全に自然法則に従っている。だが神のみは、必要があればその法則を「一時停止」することができる。その「一時停止」こそが「奇蹟」だと。

世界が自然法則に従って合理的に動いていると考えるからこそ、奇蹟の概念が成り立つ。/よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、と言う人がいますが、一神教に対する無理解もはなはだしい。科学を作った人びとだからこそ、奇蹟を信じることができるんです。(・・・)(177ページ)

あるいは、自然科学がキリスト教、とくにプロテスタントの中から生じたのは必然性がある、と。人間の「理性」への信頼と、世界を神が創造したと固く信じること、そのふたつから自然科学が生まれてくる。

一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて、人間がいちばん偉い。(・・・)/世界は神がつくったのだけれども、そのあとは、ただのモノです。ただのモノである世界の中心で、人間が理性を持っている。この認識から自然科学が始まる。(312ページ)

ユダヤ教キリスト教を考えねば今の世界の成り立ちを本当には理解できないし、これからの世界を考えるにはイスラム教を知ることが必要なのだろう。そこらじゅうに「カミさま」がいる日本で、一神教というまったく異質な思考とどれだけ向き合えるか。
サミットでの日本の総理の「浮き」具合など見るにつけ、これはけっこう大きな問題だという気がする。